「主にかなった者」 創世記6章5〜12節
本日の本文はノアについてですが、本文を通してノアの生きていた時代とノアの姿を通して私たちに与えてくださる教えについて共の考えてみたいと思います。
まず、ノアの生きていた時代はどのような姿だったでしょうか。ノアの時代について聖書は次ように説明しています。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」そして11節と12節では「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」と書いてあります。神様への信仰を捨てて偶像を拝み、互いに戦い争い、暴力や偽り、そして色々な不正なことが行われていたと思われます。その姿とは悪が増大し、人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていて、日常生活になっていた姿だと思われます。その時代についてイエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」とも仰いました(マタイ24:38)。
そのような時代を生きていたノアはどうだったでしょうか。9節に「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」と書いてあります。悪が増大し、人の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていた時代においてもノアは、正しい人であって、全き人であって、ノアは神とともに歩んだのです。神様より洪水のことが知らされ、箱舟を完成するまで長い年月の間、周りからの嘲りや迫害で大変な生活をしたと思います。その中でもノアはいつも神様を共に歩んでのです。そしてそれはノアは主の心にかなっていたからでした。主の前に恵みを得たからだったのです。
今日を生きている私たちも大変な時代を信仰者として生きています。その私たちは主の心にかなった者であり、神様から恵みを頂いている者です。その恵みを覚えて神様のみこころに従って歩む者となりたいと思います。
「お一人の神様」 マタイの福音書23章1〜12節
本日の本文は律法学者とパリサイ人たちに対するイエス様からの厳しい批判の内容です。特にマタイの福音書23章はイエス様の「わざわいだ」という表現で良く知られている箇所でもあります。13節以降で7回以上出てきますが、イエス様は律法学者とパリサイ人たち、またはユダヤの指導者たちに対して節ごとに、そして段落ごとに「わざわいだ」と語っておられます。勿論、以前からイエス様はパリサイ人たちの偽善などについて批判し、正しい姿について教えてくださいましたが、この23章では彼らの罪について今までとは違って大変厳しく指摘しておられます。
まず、イエス様は「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。」と仰います。そしてその理由として彼らはモーセの座を占めているからだと説明されます。これはパリサイ人たちがモーセの役割をしているということです。昔、モーセが神様よりみことばを頂き、それをイスラエルの民に伝え教えたように、ということです。そういう役割としてのパリサイ人たちの言うことは行い守るべきだ、ということだと思います。パリサイ人たちにそのような役割を任せてくださったのは神様です。ですから彼らが任された役割を十分に忠実に行うとき、それは守らなければならないことでしょう。
しかし、問題はパリサイ人たちがその役割に十分に、そして正しく行っていなかったことでした。彼らは言うだけは言って自分たちは実行しなかったのです。それでイエス様は「彼らの行ないをまねてはいけません。」と仰い、パリサイ人たちの実際の姿について説明して下さいます。
そして私たちが見上げるべきお方、学ぶべきお方について教えてくださいます。8節〜10節でイエス様はただお一人の教師であられる神様、お一人である父なる神様、お一人である指導者なるキリストについて語られます。聖書を通して私たちが歩むべき道を教えてくださり、その道へと導いてくださる神様、そして計り知れない愛をもって私たちを励ましてくださる父なる神様を覚えて歩んでいく者になりたいと思います。
マタイの福音書 22章1〜14節 「選ばれた者」
本日の本文は王子の結婚披露宴を催した王のたとえ話です。このたとえ話も1節にありますように、祭司長たちと長老たちにお話ししてくださったことです。そしてそのメッセージは、神様のみことばに従わなくキリストを拒んだイスラエルはその選民としての特権を取り去られて、神の国は新しい神の民に与えられるということです。
たとえ話を見ますと、王様が王子のために結婚の披露宴を催して人々を招きました。ところが招かれた人々が王様から送られた知らせを聞いても披露宴に行こうとしなかったのです。当時は宴会を催する時は、何日か前に招待しておきます。そして宴会の準備ができますとしもべを送って宴会に招きます。ですから、招かれた人々は前から披露宴のことを知っていましたし、最初の招待には参加の返事をしたことだと思います。しかし、拒んだということです。それでも王様はもう一度しもべ達を送ります。ところが、今度はしもべ達を気にもかけず、自分たちの用事に出かけてしまい、ある者はしもべ達を恥をかかせ、殺してしまったのです。王様は怒り、兵隊を送って彼らを滅ぼし、街を焼き払いました。そして王様はしもべ達を大通りに送り、出会った人々を皆招くようにし、宴会場は客でいっぱいになりました。その姿を見るために宴会場に王様が行きますが、その中で婚礼の礼服を着ていない一人がいまして、しもべ達に彼を縛って暗闇の外に追い出すように命じます。
以上のたとえ話から、私たちは父なる神様の恵みと愛を知ることができます。王様はどうしても多くの人々を招いて王子の結婚を祝い、ともに喜びを分かち合いたかったと思います。そのように父なる神様もより多くの人々を御国に招き、ともに喜ぶことを願っておられます。そしてそのように招かれだ人々に必要なものが一つありますが、それは礼服というイエス・キリストを着なければならないということです。私たちのご自分お民として招いてくださり、キリストを着させてくださった神様の恵みと愛に感謝し、それを証しする者になりたいと思います。
イザヤ書 8章1〜8節 「神に立ち返る」
本日の本文は預言者イザヤを通して神様が南ユダに語ってくださったことです。当時南ユダは、アラムと北イスラエルの連合軍の脅威に「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺」しました。そのような南ユダに神様は「恐れてはなりません。」とそして「あなたの神、主から、しるしを求めよ。」と、神様に助けを求め、神様に頼りなさいということを語ってくださいます。ところが、このような神様からのみことばを聞いたアハズ王はそれを拒み、神様にということではなく当時の力強いアッシリアに助けを求めました。それは神様を拒みアッシリアを選んだことであり、神様よりアッシリアをより信頼したことでもあったのです。
そのような南ユダに語ってくださったのが今日の本文のみことばです。神様はイザヤに「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため」と一つの大きな板に普通の文字で書かせます。それは、このことを多くの民が知ることができるように死なさい、ということです。そしてその言葉の意味は「分捕り物は速やかに、戦利品は急速に」ということです。そして神様はイザヤに、男の子が生まれますとその名前を「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と付けさせます。それは4節に書いてありますように「この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるから」です。すなわち、アッシリアを用いてくださり、アラムと北イスラエルを追い払ってくださる神様のことを覚え、神様に頼りなさいということです。
しかし南ユダは、神様からの預言通りになっても神様を拒み、アッシリアを選びます。そのような南ユダに対して神様は「インマヌエル」の約束を与えてくださり、神様に立ち返ることを語ってくださいます。私たちは何を選び、何に頼っているでしょうか。神様に立ち返り、その教えを喜び、みことばに従って歩む者になりたいと思います。
「問題を通して深められる絆」 使徒の働き16章11−40節
使徒の働きより、最初のヨーロッパ伝道であるピリピでのお話。私たちの人生に問題や困難は付き物だが、“問題の信仰的な捉え方”が重要。「神様はこの問題を通して、私に何を教えようとしておられるのか?」と御心を求め、御声を聞く時、私たちはキリストに似た者にされる聖化の歩みをしていく。
ピリピはギリシャ文化の色濃い異教の地だったが、紫布商人ルデヤ(リディア)が主を信じクリスチャンとなる。かくして、産声を上げたピリピ教会だが、早々にパウロらは、占いの霊に憑かれた女から悪霊を退散させたため、儲けを失った女の主人たちから逆恨みを受け、ついに投獄されてしまう。
鞭打たれ牢獄の中でもパウロ達は神を賛美した。神はパウロらの賛美に応えられ、大地震により全ての囚人は解放された。任務の不履行を悟り牢獄の看守は自害を試みるが、何と全ての囚人はそこに残っていた。主の真実の力に悔い改めた看守は、本人もその家族も皆救われた。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。これは大きな励ましの言葉。無実の罪であったパウロらは翌日解放され、ピリピ教会の人たちを励まし町を後にする。
「共に問題を乗り越えることを通して深められる絆」がある。ピリピ教会はその後、神の家族としてパウロらの宣教を祈り・物質・金銭面で大きくサポートする。パウロは彼らの事を思い、獄中でも感謝と喜びで満たされた。共に主の奇跡を味わい、苦労を乗り越えた事は、順風満帆な時以上に彼らの絆を深めた。人生には、「どうして私にこの様な事が」という事が起こる。しかし、それは私たちがさらに主にあって練られ霊的成長するための好機。私たちはキリストのために、信仰だけでなく、苦しみをも賜っている。
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」 ピリピ1:29。
「マリヤの信仰」 マルコの福音書14章1~9節
イエス様のエルサレムへの旅も目的地のすぐ前まで至りました。平行箇所であるヨハネの福音書12章によりますと、この日は土曜日でありまして、このベタニヤで止まってからイエス様は日曜日にエルサレムに入られます。エルサレムに入る前日、イエス様はシモンというに人の家で食事をするとこになりました。食事のために集まり、食卓についていた時、「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」のです。
この時、ヨハネの福音書によりますと、マルタとマリヤ、ラザロも共にいましたが、イエス様の頭に香油を注いだ「ひとりの女」はマリヤでした。マリヤがイエス様に注いだ香油は「純粋で、非常に高価なナルド油」と書いてありますが、後からの弟子たちの話しを見ますと300デナリ以上で売ることが出来るものでした。300デナリとは、300日分の給料にあたりまして、当時の1年間の収入とも言える大きな金額でした。そのように高額な香油を一気に使ってしまったマリヤの姿を見た反応は二つがありました。マリヤの姿をみた弟子たちは、それをもったいないと思い、憤慨してマリヤを厳しく責めました。しかしイエス様は「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」と話されます。
何故、マリヤはこのようなことをやったのでしょうか。どうしてこのようなことができたことでしょうか。それはイエス様を愛する心からのことだと思います。愛するイエス様のために、自分が持っているものの中で一番大切にしていた高価なナルドの香油を、イエス様のために使ったことです。そしてそれは十字架の出来事を前にしているイエス様においては「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれた。」ことになったのです。私たちもマリヤのように、自分の最も大切なもの、人生そのものをイエス様のために使いたいとも思います。私たちのためにご自分のいのちを惜しまずに捧げてくださったイエス様の愛に応えて歩んで行く者になりたいと思います。
「小さなことにも忠実に」 ルカの福音書19章11~27節
弟子たちやイエス様についていた多くの人々は、イエス様がエルサレムに近づくことによって、大きな期待を抱くようになります。それはイエス様によってユダヤ民族がローマ帝国から解放され、世界で最も優れた民族となることです。そう思っていた人々に、ザアカイの家でのイエス様の発言「きょう、救いがこの家に来ました。」ということは、自分たちが思うようなことが起こるだろうという期待感をもっと強くすることでした。それで多くの人々は「神の国がすぐにでも現われるように思っていた」のです。ここまでイエス様が行って来られた数多くの奇跡、教えて来られたこと、さらに過越の祭という時期のことまで。この時、弟子たちを含めて多くの人々はイエス様がエルサレムに入られると、すぐに神の国が現れると思っていたのです。
そのように思っていた人々にイエス様は十ミナをしもべたちに預けた主人のたとえ話を話してくださいます。ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に行きます。その時に、彼は10人のしもべたちを呼んで、一ミナずつを与え、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と話しました。そして主人が帰ってきまして「金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い」しもべたちを呼びました。3人のしもべたちが出てきますが、その中で二人は十ミナと5ミナを儲けたと主人に話し、それに対する報いをもらえました。しかし、一人のしもべは「私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。」と報告し、このしもべは1ミナをも取られてしまいました。
主人が遠い国に行って帰ってきたように、イエス様の再臨も遠いことです。しかし、主人か帰ってきたように、その再臨は必ずあることで、その時まで信仰者である私たちにはあることが命じられているのです。それはイエス様の教えに忠実に従い、それを実践し証しする生き方なのです。やがて来られるイエス様のことを覚えまして私たちに与えられた救いの喜びを証しして歩んで行きたいと思います。
「神のくすしい御業に」 詩篇107篇1〜7節
本日の本文である詩篇107篇は4つの段落に分けることができます。各段落は色々な苦しみについて書かれていまして、各段落ことに「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。」という同じ表現が書かれています。その中で語られている苦しみは、この世の中で経験することがあるようなことでありまして、その苦しみの中においても「主の恵みと、人の子らへの奇しいわざ」を覚えて神様に感謝せよ、と語りかけている詩篇です。特に色々な苦しみのことを話しながら主に感謝せよ、という言葉を繰り返しています。それはどんな状況においてもそして神様だけに感謝せよということを強調していることだと思います。
そんな中で4〜7節では荒野での苦しみについて話しています。出エジプトの後、イスラエレの民が荒野でさまよったことを描いています。苦しみの中で彷徨い、荒野の中でどこに行くべきなのか、その道さえも分からない状況。その中で飢えと渇きによってますます苦しくなる、肉体的な苦しみとその魂までも衰え果ててしまう状態でした。このような姿は、私たちの人生そのものではないかと思います。苦しみに溺れて、進むべき方向も見失い、生きる希望さえ持てなくなる。時に私たちはそのような苦しみの道を通ることがあります。
そのような苦しみの中で信仰者はどうしたら良いでしょうか。6節に「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」とありますように、神様に叫び祈らなければならないと思います。そのように祈る時に神様は、まっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせてくださるのです。その神様の恵みとくすしい御業を覚えて神様に感謝せよと詩人は語りかけているのです。苦しみの中においても私たちを助け出してくださる神様、その神様が私たちを真っ直ぐな道へと導いてくださることを覚えて生きる限り神様を賛美する者になりたいと思います。
「目が見えるように」 ルカの福音書 18章35〜43節
イエス様と弟子たちのエルサレムへの旅も、その目的地が近づいてきました。イエス様は31節で「これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」と弟子たちに話されました。そして本日の本文では「エリコに近づかれたころ」とエルサレムの前の町まで来られ、エルサレムまでが遠くないということが分かります。そこでイエス様は一人の目の見えない人に出会うようになりますが、彼は「道ばたにすわり、物ごいをして」いました。 毎日のように同じ場所にすわり、自分の前を通る人々に「助けてください」と物乞いをし、その時もらう物で生きていました。この日も同じところにすわり、通りかかる人々に助けを求めていたことでしょう。
この時は過越の祭りが近づいた頃でありましてエルサレムに向かう人々は普段より多かったと思われます。ところが、多くの人々が通る時期と思っていても普段とは違う雰囲気を感じたことでしょうか、彼は「これはいったい何事か」と尋ねました。すると「ナザレ人イエスがお通りになるのだ」という返事をキキマシタ。それを聞いた彼は、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言いました。
そこにいた人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます大きな声で叫びました。その叫びを聞かれたイエス様は立ち止まり、彼を連れて来るようにして「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねられました。すると、その盲人は「主よ、目が見えるよううにしてください。」と答えたのです。イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と話されました。すると、彼は目が見えるようになり、神様を崇め、イエス様について行きました。盲人の叫びを聞いてくださり、彼の願いを成し遂げて下さったイエス様。私たちもそのイエス様を見上げて、素直に心の中にあるねがいを祈り求めることが出来る様になりたちと思います。私たちの霊的な目が見えるようになり、神様を賛美しながらイエス様についていく者になりたいと思います。
「神とともにいる旅人」 詩篇39篇1〜6節
人生を真剣に考えるようになるきっかけはどのようなことがあるでしょうか。色々なことがあると思いますが、多くの場合は自分の死を直視した時に、または死を認識した時ではないか、と思います。しかし、人々は死ということについては関心もなければ、死について話すことも嫌がってその内容から避けます。死ということは誰にも必ず訪れることです。今も私たちに向かって近づいています。それ以上確実な現実はないのに、多くの人々は死について考えず準備もしません。しかし、死を認識する時、人々は自分の人生をより真剣に考え、より意味深く生きていくことができると思います。本日の本文である詩篇39篇の背景は、ダビデの晩年に死を前にして書いたものだと考えられます。自分の人生を振り替えて見ながら、神様のみ前で悔い改める詩だと思われます。
ダビデは幼い時からイスラエルの王になるまで紆余曲折がありました。色々な経験を経ってからイスラエルの王になったダビデでしたが、王様としての40年間も決して平坦な道ではありませんでした。そのような人生を生きてきたダビデは自分の死を前にした時に、その人生について真剣に考えるようになったことだと思います。そんな中でダビデは自分の人生について「あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。」と告白します。人生において時には花が咲くように栄える時もあれば「草はしおれ、花は散る」時もあります。そんな中で信仰者である私たちは、私たちの人生は旅人のようであることを覚えて、最善を尽くして生きていかなければならないと思います。
そして永遠を準備しなければなりません。私たちの人生は手幅ほどくらいの短いものですが、しかし神様とともにいる時、希望があり永遠の命が与えられます。人生のはかなさを知り、神様に望みをおいて生きていくこと、これは信仰者である私たちに与えれた祝福だと思います。旅人のような人生、しかし、神様がともにいてくださることを覚えまして感謝と喜びの中で歩んで行きたいと思います。