「天の父のように」 マタイの福音書5書43〜48節
本日の本文はイエスさまの律法についての教え、その六つ目です。5章21節から、イエスさまは律法の正しい意味について教えて下さいました。今日の本文はその最後の教えでもあり、そして5章の結論でもありますが、ここでイエスさまは「隣人を愛しなさい」そして「天の父ように完全でありなさい」と仰ってくださいます。
まずは、律法学者やパリサイ人たちが教えていたことは「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」(43節)ということでした。最初の「自分の隣人を愛しなさい」ということは旧約(レビ記19章16節など)からの教えでもあり、私たちもよく知っています。しかし、その後に続いて書いてある「自分の敵を憎め」ということは、旧約には書いてないものです。律法学者やパリサイ人たちは、旧約の色々な出来事から「自分の敵を憎め」ということを「自分の隣人を愛しなさい」という教えを付け加えたことです。それによって「自分の隣人を愛しない」という教えの範囲が本来の意味より狭くなってしまします。何故なら、相手の自分の隣人と敵に分けて、自分の隣人と思う人だけを愛するようになるからです。
しかし、イエスさまは自分の隣人を愛することは勿論、それに「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えてくださいます。隣人に敵や迫害者まで含めておられます。即ち、隣人と敵、迫害者などを分けて、その中で隣人だけを愛するということではなく、相手がどんな人であっても、その人を愛しその人のために祈らなければならない、ということです。
そしてそれは、私たちの父なる神さまはそのようなお方であるからでした。神さまは「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方です。ですから、神さまの子となった私たちは、父なる神さまに似て行くべきでありますし、神さまのようになって行くべきです。そして「天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ということが、信仰者である私たちが歩むべき道であります。そのために、神さまは私たちに励ましと力を与えてくださいます。聖霊は私たちを助け守り導いて下さいます。そしてイエスさまはその模範を私たちに見せて下さいました。隣人を愛しなさい、完全でありなさい、ど、この教えはとても難しいですが、私たちを助け守り導いてくださる神さまを見上げて神さまに喜ばれる道を歩んで行く者になりたいと思います。
「名をあげようとする人間」 創世記 11章1〜9節
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」ということわざがあります。人は昔から自分の名をあげようとし、この世に名前を残したいと思うとことがあります。本日の本文は「バベルの塔」で有名な内容ですが、ここでも人々は「名をあげよう」としていたことが分かります。神さまから離れ、神さまのいない世界を作り上げようとする人間、そのような人間に対する神さまのお姿について本文を通して考えてみたいと思います。
ノアの洪水の後、地にはノアの家族の8人だけが残るようになりました。そのノアの家族に神さまは「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と語られ、人々は地に広がり始まりました。人間の平均寿命は洪水の前よりは短くなりましたが、それでも300年以上でありましたので人々は早く地に広がり、人々が段々多くなっている中で本文の「バベルの塔」の出来事が起こったのです。
まだ一つの言葉を使っていた人々は、一つの思いを持っていました。そして人々は、「シヌアルの地」ところを見つけ、そこに定着するようになったのです。その姿について聖書は「人々は東へ移動した(新改訳2017)」と書いてあります。それは地理的な意味もありますが、神さまから離れ、自分たちの力だけで町を作ろうとする意味もあります。そのような思いで「シヌアルの地」を見つけた人々は、そこで煉瓦と瀝青を使い始め、より良い暮らしをするようになったのです。そこで人々は「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」としたのです。そしてその心の中で思っていたことは「我々が全地に散らされるといけない」ということでした。それは神さまからの命令に真っ向から否定するものでありまして、それをご覧になった神さまは、人々の言葉を混乱させ、互いにことばが通じないようにされました。その後、人々は地の全面に散らされるようになりましたが、しかしそれによって人々は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」という神さまの成し遂げられるようになります。
神さまから離れ、神さまを捨てようとする人間。そのような人間ですが、神さまはその人々を変えてくださり、ご自分のみこころを成し遂げて下さいます。私たちも神さまによって変えられ、今は神の民となり、神さまのみこころに従って歩めるようになりました。そのようにしてくださった恵みを覚えて、今週も神さまのみこころにしたがって歩む者になりたいと思います。
ヨハネの手紙 第一 2章15〜17節 「神のみこころを行う者」
本日は2020年最後の主日礼拝となります。新しい期待と希望をもって始まった2020年も数日を残しています。特に2020年は他の年より早く過ぎ去ったような感じですが、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。2020年が終わって行くこの時に、皆さんの記憶に残っていることはどのようなものでしょうか。私たちは2020年を終え、新しい年を迎えます。この時に、本日の本文を通して私たちの人生の中で残すべき姿についてともに考えてみたいと思います。
まず、使徒ヨハネは跡形も残らずなくなる人生についてこの世を愛する人生であると語らいます。本文の15節。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」ここでの「世」とは、神さまによって造られたものですが神さまに逆らうものです。空中の権威を持つ者が支配する世であり、暗闇の中で神さまに逆らい、神さまを拒むものたちを表します。そのような「世」は神さまを知らず、神さまを憎み、神さまの民をも憎みます。そのような世を愛する者には15節に書いてありますように、神さまを愛する愛はないのです。この世を愛し、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに落いているならばこの世の栄や楽しみはいつまでも続くものだろうと思うようになります。しかし、そうではありません。17節をご覧になりますと、この世とは滅び去るものです。跡形も残らずなくなるものです。暫くたちますと過ぎ去ってしまう空しいものなのです。
この世は霧のように滅び去るものです。そしてその世を愛することは空しいことです。勿論、神さまが私たちに与えてくださった人生を楽しみ喜びの中で生きて行くことはとても大切です。しかし、この世と世のものに執着し、それについての欲に落いるようになりますとその人の人生は空しさで終わってしまうかもしれません。ですから神の民である私たちは、神さまのみを愛し、神さまのみこころを行う者にならなければなりません。その人はいつまでもながらえる、即ち永遠に生き続けるからです。イエスさまが教えて下さったように、神を愛し隣人を自分自身のように愛する、その愛を実践するものになり、その愛を残す者になりたいと思います。
マタイの福音書2章1〜12節 「神の不思議な導き」
メリー・クリスマス〜!毎年、皆さんとこのようにクリスマスの挨拶を交わしましたが、今年はコロナ禍にありましてこれまでとは違うクリスマス記念礼拝を迎えるようになりました。コロナ禍という言葉は、今年の新しい言葉ですが、今の私たちが置かれている状況をよく表していることだと思います。この「禍」と言う漢字ですが、「わざわい」とも読んで「禍を転じて福となす」と言う諺があります。今のコロナの状況は教会にも、私たちの信仰にも大きな苦難であるとも言えます。しかし、この苦難の中においても私たちを守ってくださり、導いてくださる神さまによって私たちは希望を持つことが出来ます。苦難や試練が変わって希望と喜びになるようにしてくださる神さま、このコロナ禍においてもそのように守り導いてくださる神さまを覚えたいと思います。
本日はクリスマス記念礼拝ですが、このクリスマスは神さまが禍を転じて福としてくださったことではか、と思います。罪の中で滅びに向かっている私たちを、神さまが救い主イエス・キリストを送ってくださって、その滅びから救ってくださったからです。 滅びに向かう私たちの歩みをいのちの道へ変えてくださった神さま、本日の本文を通して神さまの不思議な導きについて考えてみたいと思います。
東方から来た博士たちは、当時ユダヤを治めていたヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と聞きました。彼らは異邦の人々でしたが、昔から伝わって来たメシヤの予言を信じ、不思議な星を見つけた時、その予言を思い出しました。そして大変な危険の中でも全てを忍耐し、また命を掛けて遠いユダヤまで来たのです。そして幼子イエス・キリストがおられる所まで導かれ、そこで主を拝んだのです。私たちの毎週の礼拝もそのような神さまの不思議な導きによるものです。また、博士たちを導いてくださったように、神さまはこれからも私たちを守り導いてくださいます。人生の苦しみの中でも光を持って私たちを導いてくださる神さまに頼り、クリスマスを祝い喜ぶ者になりたいと思います。
「みことばを聞き入れる」 ゼカリヤ書 7章8〜12節
本日の本文では、神様のみことばに対するイスラエルの民の聞き方が戒められています。子供たちに何かを話しをするとき、子供たちがその話しを聞いているようでありながら、聞いてない時があります。それは大人も同じだと思いますが、何かに夢中になっていたり、考えことをしていたりしますと、他の人の話しは聞こえてきてもそれにちゃんとして答えを返すことができない時があります。私たちの神様のみことばに対する姿はどうでしょうか。
本文の11節に「それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」とありますが、これは「断食」に関する質問からのことでした。7章2節、3節を見ますとベテルから人々が来て「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」という質問をします。この第5の月の断食というのは、南ユダが滅びる時、神殿が破壊された悲しみを覚えるためのものでした。それを70年間、イスラエルの民は守り続けて来たのです。とことが、この時は、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ってきていますし、神殿の再建工事も半分以上進んでいる状況でした。そういうことから、「第5の月の断食」をこれからもすべきなのか、という質問だったのです。
そういう質問に対して神様は、7章の5節と6節でその断食は「このわたしのために断食したのか。」と語られ、それは「自分たちのためではなかったか。」と語られました。即ち、その断食はイスラエルの民のためのものであって神様のまめのものではなかったということです。何故なら、イスラエルの民は神様からの教えとみことばを「聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」からです(11節)。そして神様は預言者たちを遣わしてくださり、語ったくださいましたが、イスラエルの民は自分たちの心を金剛石のように固くしてそれを聞き入れなかったのです(12節)。本来彼らが嘆くべきことは、神様のみことばに従わなかった罪、神様のみことばを聞き入れなかった罪なのに、そうしかなったということです。
神様は聖書を通して「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と教えて下さいます。そのような神様からの教えに対して私たちはそのように答えているでしょうか。その教えを心から聞き入れて神を愛し、隣人を愛するものとなりたいと思います。
「エステルの信仰」 エステル記4章11〜17節
エステル記はバビロン捕囚以降、異邦の地ペルシャに住んでいるユダヤ人の話しです。この時はすでにエルサレムへの帰還が許され、第1回目の帰還があった後です。一部の人々はエルサレムに帰りましたが、まだ多くの人々はペルシャに残っていました。その異邦の地に濃乗っているユダヤ人を神様がどのように守ってくださり、導いてくださるのかをエステル記を通して見ることができます。
このようなエステル記の中で、本日の本文、特に14節のモルデカイの言葉や16節のエステルの答えはとても有名で私たちのよく知っていることだと思います。ところがその前のエステルの答えを見ますと16節とは違う内容でした。本文の11節ですが、その11節ではモルデカイのユダヤ民族のためにアハシュエロス王の前に出ていてあわれみを求めてくれ、という願いに対して自分にはできないと返事をしています。王様に呼ばれてないのに、勝手に王様の前に出て行くことは死刑に処せられることであって、それは誰でも知っていると説明します。それに王妃ではありますが、エステルも30日間も王様に呼ばれてないと、即ち自分から王様の前に出るのはできない、ということでした。
モルデカイもそれは十分知っていたことだと思います。それでもモルデカイは神様が必ず助けてくださり、ユダヤ民族を救ってくださるということを確信していました。14節でのそのようなモルデカイの励ましを聞いたエステルも、その思いが変えられたと思います。そして16節でのように、モルデカイとユダヤ人たちに断食の祈りをお願いし、自分たちの断食して王様の前に出て行くことにします。そしてたとえそれによって自分の命が脅かされることになってもそうする、という確信に満ちた信仰を見せます。私たちもモルデカイの信仰とエステルの信仰を覚え、学びたいと思います。神様が私たちをご自分の民としてくださいました。神様の恵みと愛を知っている者として、福音を宣べ伝える者になりたいと思います。
「これを誇りなさい」 エレミヤ書9章23−24節
人は、他の人より優れたことがありましたらそれを誇りたがるところがあると思います。子どもたちの姿を見ていますと、本当に小さなことであってもそれが他の子よりよくやっていると思われるところがありますと自分がこれだけ出来るということを誇ります。それは子どもだけではなく大人になっても同じような思いをすることだと思います。そのような私たちに、神様は本日の本文を通して誇ってはならないことと誇るべきことについて教えて下さいます。
まず誇ってはならないことですが、23節で知恵ある者、力ある者、富ある者はその知恵と力と富を誇るな、と語られます。この知恵と力と富というのは、当時のイスラエルの民が誇っていたことの代表的なことだと思います。そして「誇る」という言葉は、頼る、または信頼するという意味もありまして、知恵や力、富に信頼していたということになります。即ち、イスラエルの民は自分の知恵、自分の力、自分の富を誇り、それらに頼っていたのです。自分たちが大変な状況に置かれた時、この知恵と力と富が自分たちを救ってくれるだろうと思い、これらのことを追い求め、頼るようになったことだと思います。その結果、神様のみことばに聞かない、それを悟ることが出来なくなったことだと思います。神様はエレミヤを通して預言して下さいますが、しかしその預言は聞かないで、自分の知恵を誇り、力と富に頼っていたことだと思います。
神様は、そのようなイスラエルの民に「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」と語られます。ホセア書4章6節に「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」とあります。神様は預言者を通してご自分のことをイスラエルの民に教えて下さいましたが、しかし彼らはみことばを聞いても教えられても神様を知らなかったのです。ですから、神様はイスラエルの民に神様を正しく知り、それを誇り、その神様に頼り信頼しなさい、と語られることです。私たちは何を誇っているでしょうか。神様を知り、その神様を信じていること、そして神様からの恵みだけを誇る者になりたいと思います。
「神様の御業―ヨセフ―」 詩篇105篇16〜19節
本日の本文はヨセフについてです。ヨセフは少年の時、お兄さんたちに憎まれてミデヤン人の商人に売られます。その後、エジプトの侍従長ボティファルの奴隷となりますが、それでもヨセフは最善を尽くし誠実に働き、ボティファルより信頼を受けるようになります。そのままヨセフの人生はうまく行くのかと思ったら、今度はボティファルの妻によって濡れ衣を着せられて王様の囚人を監禁する監獄に入れられます。その監獄で2年かをも過ごすようになりますが、そんな中でエジプトの王、パロの夢を解釈することでエジプトの総理大臣となります。そして神様が教えてくださった通りに、7年間の豊作をもって7年間の飢饉を準備します。7年間の飢饉が始まり、ヤコブの家族も食べ物がなくなりましてエジプトにヨセフのお兄さんたちを送りますが、それによってヨセフはお兄さんたちに出会うようになります。やがてはヤコブの家族全員でエジプトに移住するようになります。
以上のヨセフの物語は創世記37章以降に書いてありますが、創世記では時間の流れによってヨセフの人生を紹介しています。一方、本日の本文は同じくヨセフについて話していますが、時間の流れによってではなく、神様の観点から、または信仰の目を持ってみたヨセフの人生について説明しています。ですから、本文も「こうして主はききんを地の上に招き、パンのための棒をことごとく折られた。」と神様の御業の説明から始まっています。そしてヨセフが経験した様々な苦難、人生の苦しみをも「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。」をも神様のご計画の中で、神様がそのようにしてくださったと説明しています。17節の「主は送られた」ということは、神様がヨセフに特別な使命を与えてくださり、派遣してくださったという意味です。そのように神様はご計画の中で確かな目的を持って、さきがけてヨセフをエジプトに遣わして下さったことでした。
私たちはヨセフの人生をそのような観点から見ているでしょうか。また、私たちの人生をどのような観点から見ているでしょうか。ヨセフの人生、それは苦難の連続にしか見えませんが、しかし神様はそのような過程を通してヨセフを神様に遣わされた者として練ってくださり、ご計画の中でヨセフを用いて下さいました。私たちの人生の中でも様々な苦難がありますが、苦しみの中でも私たちと共にいてくださる神様、ご計画の中で導いて下さる神様を覚えたいと思います。
「わたしを愛しますか」 ヨハネの福音書21章15〜19節
今日の本文にはイエス様とペテロの会話が記されています。21章2節を見ますと、ペテロを含めて7名の弟子たちがともにいました。彼らはイエス様が捕らえられた時、イエス様を裏切り捨てて皆逃げてしまいました。また、ペテロは人々から「あなたもイエスの仲間ではないか」と追い聞かれた時「『そんな人は知らない』と言って、のろいをかけて誓い始め(マタイ26:72)」て逃げてしまったのです。弟子たちはイエス様とともに生活しながら教えられ、イエス様が行なわれた奇跡をも見ました。そしてイエス様は弟子たちに十字架の出来事について3回も教えて下さいましたが、弟子たちは皆逃げてしまい、失敗してしまったのです。
しかし、今日の本文を読んでみますと、イエス様は弟子たち責められることではなく、愛を持って弟子たちに話しかけて下さいます。そのようなイエス様のお姿から、失敗を赦して下さり変わらない愛をもって私たちに話しかけて下さるイエス様について学ぶことができると思います。
まず、イエス様はペテロのことを「ヨハネの子シモン」と3回も呼んで下さいます。そしてこの「ペテロ」という名前は、イエス様に初めて出会った時につけてもらった名前でした。それ以降「シモン・ペテロ」という呼び方は良く使われ、21章でもそうでした。しかし、ここでは「ペテロ」という名前ではなく「ヨハネの子シモン」と初めて出会った時の呼び方で呼んで下さっておられます。ペテロという名前、これはイエス様が付けて下さったものです。ですから、ペテロはその名前で呼ばれることによって、イエス様に対する自分の失敗が思い出されたかも知れません。また、ペテロ自身もその名前から自分の失敗を考えずにはいられなかったかも知れません。しかし、イエス様は「ヨハネの子シモン」と呼んで下さる事によって、失敗した弟子として呼んでいるのではなく、イエス様と初めて出会った時の姿を覚えて下さった呼んでおられるのです。このようなイエス様の姿は、ペテロに対する変らない愛を示して下さることであり、その愛をもってペテロを呼んでくださることだと思います。
その後、イエス様はペテロに3回も「あなたは、わたしを愛しますか。」と聞かれます。それは他の何よりもわたしを愛しますかという、イエス様への愛の再確認が問われていると思います。何よりも、誰よりも、あなたはわたしを愛しますか。あなたは真にわたしを愛しますか。とイエス様が聞いておられるのです。失敗を経験して落ち込んでいるペテロでありましたが、イエス様は3回の質問を通して、ペテロ自身がイエス様を愛している事をもう一度確認して下さったのです。そのようなイエス様のお姿を通してペテロはイエス様への愛を覚え、自分の心の中で再確認し、その思いを真心から告白することが出来たと思います。
イエス様は、私たちにも同じように聞いておられます。「あなたは、わたしを愛しますか」そして変らない愛をもって私たち一人一人を呼んでおられます。このようなイエス様の愛の呼びに、「主よ。私があなたを愛することとは、あなたがご存じです。」と答え、その愛の中で歩んで行く者になりたいと思います。
「平安があるように」 ヨハネの福音書20章19〜23節
この朝、イエス・キリストの復活を記念として教会に集まり、または各家庭で礼拝を捧げている教会の皆様、イースターおめでとうございます。全国において新型コロナウイルス感染症が拡散しつつあります。その状況は急変していまして、毎日のニュースを聞き、不安になり心配も多くなる時期でもあります。そのような状況に置かれている私たちでありますが、皆さんは信仰者として平安の中で歩んでいるでしょうか。
本日の本文は「その日」すなわちイエス様がよみがえられた日であり、「週の初めの日」と書いてありますが、日曜日のことです。この復活の日に弟子たちはどのようにしていたのかといいますと「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった。」ということでした。イエス様を十字架につけて殺してしまったユダヤ人たち、そのユダヤ人たちが今度は自分たちを捕まえるのではないか、と。そのユダヤ人たちに自分たちも殺されることではないか、と恐れて、弟子たちは集まっていたところの戸をしっかりを閉じていたのです。そのような恐れの中にいた弟子たちに現れたイエス様は「平安があなたがたにあるように」と挨拶してくださることでした。これはヘブライ語では「シャローム」であって、ユダヤ人にとっては日常的な挨拶でした。それは、即ち復活されたイエス様は恐れの中にあった弟子たちに現れられていつものように挨拶してくださいました、ということだと思います。いつものような憐れみ深いお姿で愛をもって恐れていた弟子たちに平安の挨拶をしてくださったのです。イエス様が苦しみを受けておられた時、弟子たちはイエス様を裏切り、捨てて逃げてしまいました。ペテロはイエス様を知らないと3回も否定し、その場から逃げてしまいました。そして今は、ユダヤ人たちを恐れ、戸をしっかりと締めて身を隠していたのです。そのような弟子たちでありましたが、イエス様はいつものように「平安があなたがたにあるように」と愛を込めて挨拶してくださり、話しかけてくださったのです。そしてそのようなイエス様を見た弟子たちは「喜んだ」のです。恐れ包まれて不安の中にいた弟子たちでしたが、復活のイエス様に出会い喜ぶようになったのです。
私たちの今の心は如何でしょうか。不安があり、恐れをももっています。これから如何なるだろう、という不安や恐れがあります。そのような私たちに、この朝、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と仰ってくださいます。いつも変わらない恵みと愛をもって私たちを守り導いてくださるイエス様を覚えたいと思います。その復活のイエス様の御声を聞き、不安や恐れがあっても喜びと平安の中で歩んでいく者になりたいと思います。