「神のみこころを行う者」 マタイの福音書12章46〜50節
本日の本文にはイエス様の家族が出てきます。マタイの福音書13章55節、56節を見ますと、イエス様には4人の兄弟(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)と妹たちがいました。本文の46節を見ますと母マリヤと兄弟たちがイエス様のところに来たのです。この時、イエス様が「まだ群衆に話して」おられまして、イエス様がおられたところは大勢の人をいっぱいになっていたと思います。そして中に入ることができなくて外に立っていましが、ある人がイエス様に母と兄弟たちが外に来ていることを伝えました。
するとイエス様は「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と話しました。まるで、母と兄弟たちを否定しているように聞こえますが、このようなイエス様の答えをどのように理解すれば良いのでしょうか。今日の本文には母と兄弟たちが来た理由について書いてありませんが、マルコの福音書3章21節、22節には「イエスを連れ戻しに出かけた」と書いてあります。そしてそれは「人々が「イエスは おかしくなった」と言っていたから」でありました。イエス様についての噂を聞いた母を兄弟たちは、イエス様のことを心配して、イエス様を家に連れ戻すために来たのです。しかし、その結果はイエス様の宣教活動を中断させてしまうことになりますでの、48節のように話されたことだと思いもあす。
その後、イエス様は弟子たちの方に手を伸ばして「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と仰いました。そして50節では「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」と仰います。天におられるわたしの父のみこころを行う者であるならば、誰でもイエス様の家族である、ということです。そこにはどんな区別もどんな差別もありません。ただ「天におられる神様のみこころを行う者であれば、誰でもイエス様の家族、神の家族になれるということです。ですから教会には、互いに違う多様な人々は集まります。その多様性の中で「神様のみこころを行う」という一致を持っています。ここに集まっている私たち一人ひとりを神様のみこころを行う者として、神の家族として呼び集めて下さったのです。その恵みに感謝し、神様のみこころを行う者となれるように祈り求めながら、神様に頼って歩んで行く者になりたいと思います。
「彼らの目が開かれて~エマオ途上~」 ルカの福音書24章13〜35節
111111111吉村直紀先生(三重中南勢地区教会設立チーム担当牧師)
Ⅰ.さえぎられていた彼らの目(13–16節)
私たちに生きて働かれる復活の主の印象的な物語; エマオ途上。エルサレム近郊エマオへの道中、2人の弟子たちは〈論じ合っ〉ていた(直訳「一緒に追求した」)。おそらく空の墓の“なぞ”(どうしてそうなったか) について。
そこへ、復活された主ご自身が自ら〈近づいて〉来られた。「ともに歩く」とは、主は人生の同伴者であるという表現。
しかし、彼らにはそれがわからない。復活の主を見る〈目〉とは、通常物を見る〈目〉とは異なり、心の目・霊の目の事。彼らは、失望・絶望のあまり心が閉ざされ信仰の目も閉ざされていた。どのような場面でも、失望に終わらずに現実の奥にイエス様を見出していきたい。
時に失望や不毛な議論でイエス様を見失ってしまいやすい私たちを、自ら近寄り共に歩み励まされるイエス様。イエス様は議論の対象ではなく、私たちの人生の同伴者。
Ⅱ.イエス様と弟子たちのやりとり(17–27節)
イエス様は二人に話しかけられる。それとは知らず弟子たちは一所懸命エルサレムでの出来事を説明する。彼らはイエス様を深く愛してはいたが、十字架と復活の意味を悟ってはおらず、イエス様をモーセの様な力ある預言者と理解していた。
空の墓や女弟子たちの報告を丁寧にイエス様本人に説明する。心の目が開かれるとは、イエス様を心にお迎えし、生き方そのものが変えられていくこと。主の「福音」に生きて行くこと。私たちも同伴者であるイエス様を見失う事の無いようにしていきたい。
Ⅲ.彼らの目が開かれて(28–35節)
イエス様は愛をもって叱責し、彼らの心の目を開かれる。エマオに近づいた彼らは熱心にイエス様を引き止める。イエス様のみことばによる語りかけは彼らの心に感銘を与えていた。イエス様による食前の祝福の時、彼らの目は開かれた。私たちの信仰を呼び覚ますのは主の主権的働きかけによる。そして、イエス様はその場を去る。
復活の主のご臨在とお言葉により、彼らの暗い顔つきは消え彼らの〈心はうちに燃えてい〉た。〈説き明かしてくださる(32節)〉は直訳「開いて下さった」で31節の『目が開かれ』と同じ言葉(英語ではどちらも”open”)。聖書の隠された意味を「開く」のは主ご自身。
今日も、信仰の弱い私たちの心の目を開かれるのは、復活の主のご臨在とイエス様によって明らかにされる御言葉。その時初めて私たちの信仰は「うちに燃」やされる。
「ヘブロンに帰って来る」 Ⅱサムエル記2章1〜11節
長い間、ダビデの命を狙っていたサウルは、ペリシテ人との戦いの中で死にました。サウルだけではなくヨナタンも死にましたが、その知らせを聞いたダビデは非常に悲しみました。しかしサウルとその息子であるヨナタンの死によってダビデはイスラエルの王になることができるようになりました。既にダビデはサムエルによって油注ぎを受けました。そしてサウルもヨナタンもダビデが次の王になること話していました。ですから、サウルをヨナタンが死んだこの時、ダビデはイスラエルの民に自ら王であることを宣言すれば、それでイスラエルの王になることができたのです。
ところが本文の1節を見ますと、ダビデは神様にこれからのことを伺います。今までのダビデは自分の思いや判断に頼って来ました。イスラエル人でありながらも、ペリシテ人の町ツィクラグに住んでいた事も自分の思いの中でそうように判断したことです。それによってその後、ダビデは色々な大変なことを経験するようになります。その経験を通して、自分の思いに頼ることではなく、神様に伺い神様に頼って行こうと、そのような思いに変えられたことだと思います。そしてイスラエルの王になる第一歩において、先ず神様に伺い、そのみこころに従って行こうとしたのです。そして神様のみこころに従ってヘブロンに帰ってきたら、ユダ部族の人々が来まして自分だちの王としたのです。神様のみこころを伺い、そのみこころ通りに従ったダビデ、そのダビデがイエスエルの王になるのは、とてもスムーズにできるように見えます。
しかし、アブネルがサウルの生き残った息子イシュ・ボシェテを連れてマハナイムに行き、そこでイシュ・ボシェテをイスラエルの王とします。これによってイスラエルの北側はイシュ・ボシェテを自分たちの王とし、ユダ部族だけがダビデを王としたのです。これによってダビデがイスラエルの全体の王になるまでは7年6ヶ月を待たなければならなくなりました。神様のみこころを伺い、それに従ったダビデ。最初は自分が願う通りになるように見えましたが、しかしイスラエルは二つに分かれ、同じ民族同志に戦いをもするようになります。このような困難と戸惑いがありますが、それでも神様はダビデを導いて下さっておられます。私たちの信仰の歩みも同じではないでしょうか。思う通りにならない、苦難や苦しみは繰り返しいる。そのような歩みの中でも神様は私たちを守り導いて下さっておられることを覚え、その神様を仰ぎ見て歩んで行く者になりたいと思います。
「気も動転するお知らせ」 マルコの福音書16章1-8節
本日の本文には、イエス様が葬られてから初めてそのお墓を訪ねた3名の女性たちが出て来ます。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、そしてサロメは週の初めの日の早朝にイエス様のお墓に向かいました。それは十字架で死なれ葬られたイエス様に香料を塗るためであったのです。ですから、彼女たちはイエス様の復活を覚えてお墓に向かったことではありません。香料というのは、死体が腐敗することを防ぐために、または腐敗の臭さを消すために塗るものでありました。彼女たちがそれを用意し持って行ったということは、イエス様が復活されることは全く覚えていなかった、期待もしなかったということです。
イエス様が葬られたお墓に向かう彼女たちが心配していたのは、入口をふさいでいた大きな石でした。ただ、そのような心配をしていた女性たちでしたが、ところがお墓について見ましたらその大きな石は転がしてありました。それを見て驚いた彼女たちは墓の中に入って見ますと、そこには真っ白な衣をまとった青年が座っていまして、この「青年」とは御使いでした。御使いは彼女たちを安心させて、イエス様はよみがえりましたと、お墓が空っぽになったことを説明しました。
そして御使いは「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」ということを弟子たちとペテロに言いなさい、と彼女たちに語りました。これがよみがえられたイエス様の最初のメッセージでした。「弟子たちとペテロ」彼らはイエス様の十字架の出来事で失敗し、深い絶望に陥っていました。そんな彼らに、復活されたイエス様が最初に伝えたのは「お会いできる、そこであなたたちを待っている」とのことでした。そうやってご自分の弟子たちに愛を示してくださるイエス様です。また、それは私たちをもそのように召してくださる御声でもあります。信仰者であるにも関わらず、その弱さによって苦しみ悩み、絶望し、神様の御前に出て行こうとすることもためらう私たちを、復活されたイエス様は愛の御声で毎週ま礼拝に招いてくださるのです。そのようなイエス様の御声に励まされ、神のこどもとしての人生を歩んで行きたいと思います。
「十字架の道」 マルコの福音書15章:16-21
本日の本文の20節を見ますと、ローマの兵士たちがイエス様を嘲弄した後、十字架につけるために連れて行く場面があります。何の罪も犯さなかったイエス様でありますが、ユダヤ人たちの偽りの訴えによって罪人とされ、残酷な十字架刑を宣告されました。20節の前半を見ますと「彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着させた。」と書いてあります。紫の衣を脱がせた時、その痛みは言葉では説明できないほどだったと思います。何故なら、イエス様はすでに全身を鞭に打たれて傷だらけになっていたからです。全身が傷だらけで、まだ血が流れていたはずなのに、ローマの兵士たちはイエス様を嘲弄するために、その傷の上に紫の衣を着せたのであります。そして、その衣が脱がせられた時、私たちには想像も出来ない痛みが加えられたと思います。ローマの兵士たちは、このような状態のイエス様を連れて、十字架につけるためにゴルゴダの丘に出発しました。
ところが、途中でイエス様は限界に至り、もう進む事が出来なくなりました。イエス様が受けて来た事を考えて見ると、誰もそのようになったと思います。この時、ローマ兵士が一人の人にイエス様の代わりに十字架を背負うようにします。その人が本文の21節に出て来るクレネ人シモンという人物です。そしてシモンは、何故私なのかという疑問とともに、シモンは十字架を背負ってゴルゴダの丘まで行くようになりました。そしてシモンはイエス様が十字架に付けられる事も、イエス様の死も見たでしょう。無理やりに十字架を背負うようになり、自分とは何の関係もないと思っていたイエス様の受難、十字架、死はシモンと彼の家族も救われる切っ掛けになりました。
無理やりに背負うようになった十字架がシモンと彼の家族を変える大きなきっかけになったことのように、私たちに与えられる奉仕一つ、一つが私たちの信仰を振り替えて見ることが出来る大きなきっかけや大きな喜びとなるようにと願います。
私たちの人生の中に突然訪れる試練、苦しみや苦難等によって、私たちは絶望に陥り易いです。しかし、そのような突然な苦しみや苦難の中でも、絶望したりするのではなく、イエス様の十字架を覚える者になりたいと思います。
「神がともにいて下さる」 Ⅰサムエル記14章6〜15節
Ⅰサムエル記14章には、同じペリシテ人に対するサウルと彼の息子であるヨナタンの姿が記されています。前の13章で、サウル王はサムエルが来ることを待つことができず、自ら神さまに全焼のいけにえを捧げました。そしてそれによって神さまから「あなたの王国は立たない。」そして「主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。」と言われました。その後のサウル王の姿が、ヨナタンとの対比の中で現れます。
まずはヨナタンの姿ですが、1節以降を見ますとヨナタンはペリシテ人に対して非常に大胆に行動することでした。自分の道具持ちの若者と二人でペリシテ人の陣営に上って行くことでしたが、6節を見ますとそのようなヨナタンの姿は神さまへの信頼によるものでした。この時のペリシテ人は、戦車3万、騎兵6千、それに兵士は数え切れないほど多くありました。そのようなペリシテ人の陣営に上って行く中で「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」と告白し、「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。」と全てを神さまに委ねていました。ヨナタンと道具持ちの若者の二人は、20人のペリシテ人を打ち殺したことでしたが、これによってペリシテ人の陣営には大きな混乱が起こり、ペリシテ人は同士討ちをするようになり、イスラエルは勝利を得るようになります。
その一方、サウル王はどうだったでしょうか。ペリシテ人の陣営で騒ぎが起こったことを聞き、祭司アヒヤに「神の箱を持って来なさい」と言います。これは神さまの御心を伺うためでしょう。しかし、その後騒ぎが大きるなると「手を戻しなさい」と神さまの御心を伺おうとしたことを直ぐ止めてしまいました。このような姿からサウル王は、神さまの御心を伺い従おうとする思いは持っていなかったことだと思います。また、イスラエルの兵たちに断食を命令することでしたが、それの本当の理由は「私が敵に復讐するまで」ということでした。断食は神さまへの献身を現すことですが、しかしサウル王は自分のために断食を命令したのです。
このようなヨナタンとサウル王の姿を見たイスラエルの民は、神さまはヨナタンとともにおられた、と言います。即ち14章でのサウル王の姿は、神さまが離れてしまった、神さまがともにいてくださらなかった者の姿であったのです。
私たちにとって本当に大切なことは、神さまがともにいて下さるという神さまとの正しい関係にいることだと思います。そのために悔い改め、神さまのみことばに聞き従う道を歩んで行くように祈り求めたいと思います。
「罪を赦して下さるイエスさま」 マタイの福音書9章1〜8節
私たちの人生には不安や苦しみ、悲しみなどがあります。このようなことは、私たちが生きて行く中で大変大きなことです。しかし、私たちの人生で最も大きな問題は何でしょうか。それは罪によって神さまから離れているということです。本来は、神さまに造られ、神さまに愛され、神さまと共に交わりを持つ存在であるのに、罪によって神さまから離れてしまい、そのようなことが出来なくなりました。本日の本文にはそのような人間に罪の赦しを与えて下さるイエスさまの姿が記されています。
前回、イエスさまはガダラ地域の人々に「立ち去ってほしい」言われました。それで1節を見ますとイエスさまはご自分の町に帰られました。その町はカペナウムだと思いますが、そのカペナウムのある人の家でのことです。そこにはイエスさまと大勢の人々が集まっていましたが、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスさまの前に運んで来ました。同じ内容のルカの福音書を見ますと、その家は入り口まで人でいっぱいになっていましたので、中風の人を運んで来た人々は家の屋根の瓦をはがしてイエスさまの前につりおろしたことでした。中風の人も彼を運んで来た人々も、中風という重い病が癒されることを心から願いここまで来たことだと思います。
ところが、その時にイエスさまが言われたことは「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」ということでした。多くの人々は意外なイエスさまの言葉に不思議がっていたと思いますが、しかしこの言葉こそ最も大切なことであります。イエスさまは中風の人の根本的な問題をご覧になり、中風という病を癒して下さることは勿論、罪の赦しをも与えて下さったのです。この罪の赦しは神さまのみに出来ることでありまして、この出来事を通してご自分の神としての罪を赦す権威を表して下さったことです。
以上のようにイエスさまは、私たちの罪を赦して下さるお方であります。私たちは色々な問題や苦しみ、悩みなどを持っていますが、最も根本的なことである罪の問題を解決して下るお方であります。私たちに「あなたの罪を赦されました」と、この世からは得られない安らぎと平安と喜びを与えて下さるイエスさまを覚えまして、そのお方を証しし、そのお方にのみ頼りつつ歩んで行きたいと思います。
「イエスさまに出会う祝福」 マタイの福音書8章28〜34節
本日の本文は、イエスさまが悪霊につかれた二人から悪霊を追い出してくださり、その苦しみから救ってくださる内容です。著者マタイは、8章で色々なイエスさまの行われた奇跡を記しています。ツャラアトにおかされた人、百人隊長のしもべ、そしてペテロのしゅうとめを癒して下さいました。そしてガリラヤ湖を渡る時は、自然をも治める御力を見せて下さいました。そして今日の本文においては霊的存在に対しても権威を持っておられるイエスさまのことが紹介されています。
悪霊につかれた二人は、墓場から出てきました。そしてその二人について「ひどく狂暴で、誰もその道を通れないほどであった」と書いてあります。同じ内容のマルコの福音書を見ますと、足かせや鎖で繋いでいてもそれを引きちぎり砕いてしまい、昼も夜も叫び続けていた、そして石で自分の体を傷つけていた、と書いてあります。二人の人は、悪霊によって普通の生活が出来なくなりました。住んでいるところも、彼らの姿も悪霊によって破壊され大変な日々と過ごしていたのです。
そして悪霊どもはイエスさまに「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に 送ってください」と懇願して言いました。それでイエスさまは「行け」と言われまして、悪霊どもは二人から出て行って豚に入りました。すると、その群れ全体が 崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだのです。この時、豚の数は、マルコの福音書によりますと二千匹ほどでしたが、その数が全部湖に落ちて溺れて死んでしまった、ということも悪霊の恐ろしい力を見せることだと思います。そのような悪霊が二人を支配していた、ということ。その二人にとってはどれほど大変なことだったでしょうか。この二人はイエスさまに出会い、その苦しみから救われたのです。その話しを聞いた町中の人々はイエスさまに出会うために出て来ました。しかし彼らはイエスさまに出会うと、立ち去ってほしいと懇願しました。いのちの主であり救い主であられるお方が自分たちの目の前におられるのに、そのお方を拒んだのです。
かつては、私たちも悪霊につかれた二人のように悪霊に従い、悪霊に支配されていました。しかし、イエスさまに出会い、その御力によって解放され神さまの子供とされたのです。この救いの喜びを覚えて感謝し私たちの愛する人々や大切な人々に救われた喜びを証しして行きたいと思います。
「主の御声に聞き従う」 Ⅰサムエル 12章7〜17節
Ⅰサムエル11章でイスラエルはアンモン人と戦いますが、その戦いで大勝利をえました。12部族から集まった33万の人々が、サウルの指揮の下で一つとなって戦い、自分たちより強いと思っていた相手に対して思わぬ勝利を得たことです。それでイスラエルの民は直ぐ、サウルを前イスラエルの王として立てました。これによってサウルは前イスラエルから認められた最初の王となりました。
このようにサウルが正式に王になった、ということはイスラエルに新しい変化が始まった、ということです。それは士師の時代は終わり、王様が治める時代が始まった、ということです。サムエルは最後の裁きつかさとなり、サウルは最初の王となります。本日の本文でサムエルは裁きつかさとしての最後の説教をしますが、その説教を通して神様の恵みに対する私たちの信仰について考えてみたいと思います。
まず、サムエルは1節〜6節で、イスラエルの民に自分の潔白について語ります。特に3節で、今までの私に何か不正や過ちがあったら訴えなさい、と語ります。最後の説教で何故このようなことを語るでしょうか。自分の潔白を確認するということはどのような意味があるでしょうか。それはイスラエルの民が王を求めた本音を確認するため、と言えます。イスラエルの民が王を求めた理由、それはサムエルの高齢化とサムエルの息子たちの行いが正しくなかったからでした。それを理由として新しく王を求めたということですが、本当の理由はそうではなかった、ということです。次に、サムエルは7節〜11節でイスラエルの歴史について語ります。神さまはイスラエルの民をエジプトから救い出してくださり、カナンの地に住まわせて下さいました。そして今まで、イスラエルの民を守り導いてくださり、安らかに住めるようにして下さいました。即ち、他の国々のように王はなかったですが、神さまがいつも共におられましてイスラエルを治め守り導いて下さいましたし、それには何の不足のなかった、ということです。
それなのにどうして王を求めるのか、ということです。イスラエルが王を求める本当の理由、それは神さまではなく、人間の王に頼りたいということでした。目に見えない神さまではなく、他の国々にように目に見える力強い人間の王が自分たちを守ってほしいということだったのです。そのような思いで王を求めるイスラエル、それでも神さまは彼らの願いを聞いてくださり、サウルを王として選んでくださったのです。ですから、自分たちの罪を悔い改めてこれからはただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主にのみ仕えなさい、と進めるサムエルです。このように憐れみ深い、恵み豊かな神さまを覚えたいと思います。いつも忍耐を持って私たちを守り導いてくださる神さまに感謝し、その神さまの御声にのみ聞き従うものになりたいと思います。
「私たちの不信仰と、真実な主の力」 マルコ9章14–29節 吉村直紀牧師
Ⅰ.解決はただイエスに(14‐19節)
変貌山での出来事をイエス様、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが経験している間、他9人の弟子たちは汚れた霊の追い出しを試みて失敗し、律法学者と議論します。そこへイエス様が現れ、彼らに「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのか?」と問います。イエス様は彼らが何を話しているかご存知でしたが、群集の注意をイエス様ご自身に向けさせます。これは大切な原則を示し、助けを必要としている者は、まず第一に、自分の問題を告白し必要を満たす主イエス様の力を良く知る必要があります。人間(弟子たち)の人格や行いに注目するのではなく、最終的な救い・解決を与える主イエス様の力により注目する事が大切です。
イエス様は弟子たちと世の不信仰を嘆かれ、さらに群衆の中に「口を聞けなくする霊につかれた息子」の父親がおり、父親とイエス様のやりとりが続きます。
Ⅱ.父親の不信仰と悔い改め(20-29節)
イエス様の前に連れて来られた少年は、ひきつけを起こします。父親はイエス様にすがり、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と嘆願します。『おできになるなら』という父親の言葉を、イエス様は愛をもって、しかしはっきり叱られました。そこには遠慮もあったかも知れません。しかし、相手は神様です。この言葉の英訳は、“If You can do”。しかし、神様に不可能はありません。父親の言葉には大変重要な、神である主イエス様の絶対的なお力への信頼が欠けていました。「信じるか」「信じないか」という場面が信仰にはあります。
しかし、父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と大胆に悔い改めをします。父親は自身の主への信頼の弱さを認めつつも、救いを与えて下さるイエス様の絶対的なお力を信じました。私たちが自分の罪深さを悲しみ、それを捨て神様に帰るなら、神様の真実と善意によって神様はキリストにあり全ての罪を赦してくださいます。私たちの信仰とは決して完全なものではありえません。しかし、神様の真実なお力は確実に私たちを救う事が出来ます。そして、イエス様は彼の切なる願いを聞き、悪霊を子どもから追い出されたのでした。私たちもこのイエス様・神様の救いを与えてくださる大きなお力に信頼し、今週も主と共に歩んでまいりましょう。