「不信仰な世」 ルカの福音書9章37-45節
本日の本文では、悪霊に取りつかれたひとり息子の父親が出て来ます。その父親は大変苦しんでいる息子を癒して頂きたく、イエス様のところに来ましたがそこにイエス様はおられないで何人かの弟子たちだけがいました。それでその弟子たちに、悪霊を出して下さるようにお願いしましたが、そこにいた弟子たちはそれが出来ませんでした。その時、変貌の山から下りて来られたイエス様は、その父親から事情の説明を聞かれました。そして、イエス様は深い溜め息をつかれながら「不信仰な、曲がった今の世だ。」と仰いました。
この時の「不信仰な世」、それは決して神様を知らないこの世だけのことではありません。その対象はイエス様の弟子たち、イエス様のところに切実な願いをもって出て来た父親、そして律法学者たちであって、彼らの不信仰の姿に悲しんでがっかりされて溜め息をつかれたのです。この時、弟子たちは神様からの力を、まるで自分のもののように使おうとしました。また、父親はイエス様に対して疑いの思いをもって願っていました。そして律法学者たちは神様のみことばを解釈するのに曲がった理解をもっていました。そんなところか、神であられるキリストを目の前にしながらもそれが分からずそのお方を殺そうとしていたのです。そのように其々不信仰な姿をもっていました。そういう彼らの姿、またイエス様を囲んでいる大勢の群衆もただの好奇心でイエス様を見ていることから「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」と仰った事だと思います。
そう言われている中で、私たちの信仰はどうでしょうか。私たちは神様のみこころを正しく悟り、何の疑いもなく、それが自分を通してなされることを信じているでしょうか。それとも、ただ信仰という言葉で、自分の願いがかなわれたり問題が解決されたりすることなどを願っているだけでしょうか。イエス様は光り輝く栄光の姿であれ、十字架の惨めな姿であれ、ただ神様のみこころがご自分を通して成し遂げられることだけを願っておられました。そのようなイエス様に学んでただ神様を信頼し、神様の力を仰ぎ見て歩んで行く者になりたいと思います。
「どこにいるのか」 創世記3章8-13節
創世記3章では、最初の人間であるアダムとエバが神様からの戒め(創2:17)を破って、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいます。その後、彼らは神様が彼らのために造って下さった楽園、エデンの園から追い出されるようになります。このように最初の人間の堕落からエデンの園から追い出されることまで記されている創世記3章は、聖書で非常に重要な内容を話しています。というのは、創世記3章に記されている内容は、聖書全体の中心メッセージを理解するのに必ず必要であるからです。
そんな中で、本日の本文は罪を犯した人間に神様が最初に声をかけて下さったことと、その御声に人間はどのように反応したのかということについて教えています。罪を犯したアダムとエバにかけてくださった神様の「あなたは、どこにいるのか。」という御声はどのような意味だったでしょうか。一つ目に、その御声は罪を犯した人間に自分を振り替えて見ることが出来るチャンスを与えてくださる呼びかけでした。神様の御顔を避けて木の間に隠れているアダムに、間違ったところにいることを悟らせてくださる御声だったのです。二つ目に、罪を犯した人間に悔い改めの機会を与えるものです。その後、神様はもう一を聞かれますが、アダムとエバは罪の責任を他人に転嫁しました。そこにおいてアダムは神様のせいにまでしてしまいます。結局、その罪から悔い改めず、神様を避けて自分の身を隠した人生を生きるようになりました。最後に、この呼びかけは正しい関係に回復されることを願う御声でした。そして聖書は罪に落ちている人間へのその神様からの呼びかけ、御声が記されているのです。
神様は、今も、私たちを呼び掛けてくださいます。罪人である私たちに神様から声をかけてくださるということです。そしてひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちのすべての罪を背負うようにして下さいました。そのような神様の呼び掛けに素直に答え、その御前に出て行く者になりたいと思います。
「変貌の山」 ルカの福音書9章28‐36節
本日の本文はイエス様の御姿が変わったことから「変貌の山」と知られている箇所です。本文によりますと、祈るために山に登られたイエス様は、祈っておられるとその姿が光り輝くように変わりました。そして驚くことはそれだけではありませんでした。光り輝く姿に変わったイエス様のそばに、モーセとエリヤが栄光のうちに現れて、イエス様とモーセ、エリヤの3人で話し合っておられたのです。そしてその話し合っておられた内容とは、エルサレムでのキリストの十字架のことでした。
このような光景を目の前にしていた3名の弟子たちがいました。それはペテロとヨハネ、ヤコブであって、彼らは以前にも3名だけが選ばれてイエス様が行なわれる奇跡を見たことがありました。この時も、イエス様はこの3名の弟子を選ばれて栄光に輝くご自分の御姿とモーセとエリヤの会話の内容から、これから起こることについて教えて下さろうとしたのでしょう。しかし、ここででも弟子たちはイエス様の教えより自分の考えに耳を傾けるのでした。光り輝くイエス様の姿と栄光のうちに現れたモーセとエリヤの姿は見ましたが、その中で話されていたことについては気づくことが出来ませんでした。イエス様はモーセとエリヤとともにこれからの十字架の苦しみについて話し合っておられたのに、弟子たちはただ今の状態が素晴らしくてそこに留まっていたいということでした。弟子たちがそう言っている時に、雲がわきおこって彼らは雲に包まれるようになり、その雲の中から「彼の言う事を聞きなさい。」という神のみ声が聞こえて来たのです。
この時、弟子たちが考えていた栄光とはこの世での支配や力のようなものでした。しかしイエス様をモーセとエリヤが話し合っていたのは十字架の道でした。それを知らなかった弟子たちに神様は「彼の言う事を聞きなさい。」仰って下さったのです。自分の考え方を捨てて、ただ、イエス様の教えに聞く者になりたいと思います。
「ようやく悟る」 マタイの福音書16章1-12節
本日の本文は、「パリサイ人やサドカイ人たち」がイエス様のところに来て、天からのしるしを見せて下さいと頼んだことが書かれています。ところがこのような内容は、本日の本文が初めてではありません。すでにマタイの福音書12章後半で「律法学者、パリサイ人たち」がイエス様にしるしを見せてくださいと求めた事がありました。その時から半年から1年位の時間が立ち、その間もイエス様は色々なところでメシヤであるしるしの奇跡を行なわれました。そうであるにも関わらず、パリサイ人やサドカイ人たちは、信じることができずイエス様をためそうとして同じこと求めているのです。
私たちは神様のみことばをいつも謙遜なこころで聞き従っているのでしょうか。本当に神様が示して下さったみことばをそのまま信頼し受け入れているのでしょうか。神様のみことばであり教えである聖書に教えられている神様を神様として信じ従っているのでしょうか。それとも聖書に示されていることよりも、他の奇跡が起こることを求めて、それが起こるとより熱心に信じると思ってはいないでしょうか。本日の本文に出て来るパリサイ人やサドカイ人、或いは弟子たちの姿を通して神様を神様として、キリストをキリストとして信じているかどうかが私たちにも問われていると思います。
私たちの信仰の歩み中には、神様が私たちに与えてくださった恵みと愛を、時間が経つことによって、または状況によって忘れてしまい覚えていなくて不安になり心配することもあるでしょうか。そんな信仰の薄い私たちに、そんな弱い私たちにイエス様は今日も語りかけてくださり、正しい道を教えてくださいます。そしてそれによって私たちがどんなに薄くて弱い信仰をもっているとしても、イエス様の教えをようやく悟り、神様に喜ばれる道を歩んで行くことが出来るのです。私たちをいつも教え導いてくださるイエス様を覚えて、そのお方と共に歩んで行きたいと思います。
「四千の給食」 マタイの福音書15章32‐39節
本日の本文の内容は「五千人の給食」と非常に似ています。そしてその奇跡はマタイの福音書14章に記されていて、少し前に取り扱った内容です。14章には「五千人の給食」そして15章には「四千人の給食」という、同じような出来事を、著者マタイは何故このような書き方としているのでしょうか。へんぴな所で大勢の人々を満腹させたという奇跡を通して、イエス様の素晴らしい力を表わしたかったなら一つの出来事で、それも人々がより多く集まっていた「五千人の給食」だけでも十分だったと思います。ところが、マタイは同じような出来事を、それもすぐ次の章で紹介しているのでしょか。
特に本文の33節に書かれている弟子たちの反応は、全く初めてのような姿のように見えます。少し前に五つのパンと二匹の魚という少ない食べ物で男だけで五千人の人々が満腹するまで食べて、残ったパン切れが12かごもあったという大奇跡を経験したならば、あり得ない反応なのです。そういう疑問から一部の学者たちは、マタイが一つの出来事を重複して記録したと説明したりします。しかし二つの奇跡はその内容、行なわれた場所や時期などを良く見て見ますと、異なる出来事であることが分かります。そして何と言っても、16章9-10節でイエス様ご自身が二つの出来事がそれぞれ行なわれたものであることを仰っています。
それでは、何故弟子たちは初めてのような反応を見せたのでしょうか。それに対して一つ目には、16章でイエス様が仰ったように覚えていなかった、と説明出来ます。そしてもう一つは、今回の集まっていた人々は異邦人であったので、ユダヤ人と同じような奇跡が起こるとは考えられなかったということです。そこには弟子たちの霊的な盲目と弱さや異邦人に対する冷たい心があるのです。ところが、限りない愛と憐れみをもっておられるイエス様は、ユダヤ人にも異邦人にも同じ奇跡を行なって下さいました。また、そんな弟子たちであるとしても、変わりなく彼らを用いて下さったのです。そういう限りない愛と恵みをもって私たちに注いで下さり、用いて下さるイエス様を覚えて歩んで行きたいと思います。
「主イエスに呼び寄せられたあなたへ」 マルコの福音書3章13節~19節
志賀キリスト教会 青木稔 牧師
今日の聖書箇所は、イエス・キリストが12弟子を呼び寄せられた、いうならば、神の選びについての出来事です。どうして、彼らが主に呼び寄せられたのかということですが、12人が他の人たちよりも、特別な才能があるとか、真面目であったという訳ではありません。人間的に見るならば、その逆です。
短気な人、疑い深い人、自己中心的な考えの人、お金ためなら、イエスを裏切ってしまう人、言い換えるならば、欠けの多い失敗だらけの人たちだったのです。にも関わらず、主に呼び寄せられたのは、キリストご自身が望んで選んだ、それ以外に理由はありません。そのことを感謝して生きることが、信仰者にとりまして、とても大切なことなのです。
新年を迎え、もう一度、主に呼び寄せられた者であることを感謝して、へりくだって、キリストと共に歩ませていただきましょう。
「共に神をあがめる」 マタイの福音書15章29‐31節
本日の本文には、イエス様と弟子たちはツロとシドンを去ってガリラヤ湖の岸に行かれたとあります。この時のガリラヤ湖の岸とは、ガリラヤ湖の東南の方であって異邦の地でありました。前の段落から考えて見ますと、再び異邦の地に行かれたと言うことで、ユダヤ人にも異邦人にも奇跡を行なって下さるイエス様の姿を見ることが出来ます。
イエス様は、そういう異邦の地のある山に登って座っておられました。すると、そこに「大勢の人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た」のです。今までのイエス様の行なった奇跡の噂は勿論、以前、イエス様はこの地方で悪霊を追い出されたこともありました。そういうことから多くの人々はイエス様に癒しを求めて続々と集まって来たのです。そこには自分の病気や不自由のためにということもありますが、本文を見ますと「大勢の人の群れが、みもとに連れて来た」と書かれています。即ち、そこにはあの人を助けてあげたいという思いをもって多くの人々がイエス様のみもとに連れて来たということです。しかも、この時、イエス様は山に登っておられました。それが高い山ではないがしろ、病をもっている人々やからだの不自由な人々、そしてそのような人々を連れて来る人々にとっては大変な道であったと思われます。しかし彼らは共に必死にイエス様のみもとに登っていたのです。そしてイエス様に癒されてそこにいた人々はユダヤ人も異邦人も神をあがめたのです。
私たちが誰かを教会に誘い、導くということは大変なことです。そこには山を登って行くようなこともあるかも知れません。しかし、本日の本文に出て来る大勢の人々の姿を覚えたいと思います。彼らによって病の人々や不自由な人々がイエス様に癒されました。私たちも私たちの周りにいる、魂の目が見えない人々、心の耳が聞こえない人々をイエス様に連れて行く者になりたいと思います。そしてイエス様のみもとにおいてその魂が癒されて共に神様をあがめる喜びを味わいたいと思います
「すべての人を照らす」 ヨハネの福音書 1章9-13節
皆さんは普段聖書を読んでいますでしょうか。そして聖書からどういうものを学ぶことが出来ますでしょうか。この世の中で聖書はベストセラーとも言われる程よく知られている本です。聖書について深い関心をもってクリスチャンではなくても聖書を読む方がいれば、クリスチャンより深く学ぶ方もいると思います。聖書を読んだり親しくしたりしている人々の中で聖書が教えていること、聖書に書かれていることの真意をきちんと理解する人はどの位なのでしょうか。そもそも聖書が私たちに教えていることは何でしょうか。
そんな中で、本日の本文の10節を見ますと「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」と書かれています。勿論「この方」とは、イエス・キリストです。そして10節に書かれていることは、この世界はイエス・キリストによって造られたと言うことです。ところがこの世は、そしてこの世の人々はその造り主を知らなかったと教えています。そして続く11節を見ますと「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と書かれています。つまりキリストはもとからおられて、この世界を造られたお方なのです。そのお方がこの世に来られたのに、人々は知らなかったし、さらには知ったとしても受け入れてなかったということです。
そのような人間に対して神様は大変大きな愛をもってあり得ないことをして下さいました。それが12節と13節の内容です。この世を造られた神を知らない人々、そのお方がこの世に来られたのに信じなかった人々を、神様はご自分の子どもとされる特権を与えてくださいます。人間は知らなかったのに、人間は受け入れなかったのに、神様は人間を受け入れて下さり、ご自分の子どもとして下さったのです。この神様の大きな恵みと愛を教えて下さるためにキリストはこの世に来られ、すべての人の心を照らして下さるのです。このまことの光であるキリストによって私たちの心が照らされ、その神様の愛に答えて歩んで行きたいと思います。
「立派な信仰」 マタイの福音書15章21-28節
本日の本文に出て来るひとりの女性は、ひどく悪霊に取りつかれた娘の母親です。マルコの福音書には「小さい娘」と記されています。まだ可愛い小さい娘が悪霊に取りつかれて苦しむ姿を見ることは、母親にとってそれ以上辛いことはないと思います。そんな彼女は、ある日、イエス様の噂を聞いて娘を癒してもらいたいという切実な願いをもつようになりました。そして、そのイエス様は近く来られた事を聞いた彼女はイエス様の所に行って「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び始めました。
この女性は「カナン人の女」と書かれていて、マルコの福音書には「ギリシャ人で、スロ・フェニキヤ生まれ」であると紹介されています。彼女は異邦人であるということです。そのような彼女の口から初めて出た言葉が「主よ。ダビデの子よ。」ということでした。「ダビデの子」とは、メシヤ、即ち、約束された救い主という意味です。彼女は異邦人でありますが、イエス様について良く分かっていたのです。そしてそのイエス様に自分の願いを叫び続いていたのです。
ところが、イエス様はそのような彼女の切実な叫びに一言も答えられないでいました。また、そのような姿を見ていた弟子たちは困った顔でイエス様に何とかして下さるように、と話しをしました。その後のイエス様のお答は非常に冷たい言葉でありました。その後、母親は冷たくされて諦めるという事ではなく、今度はイエス様の前でひれ伏しながら「主よ。私を助けてください。」と言い始めました。このようにご自分の御前でひれ伏しながら助けを求めている母親に、イエス様は私たちの目を疑いたくなるようなことを言われます。それでもこの母親は諦めずに自分の弱さや貧しさを告白しながら、イエス様が恵みを与えてくださることを握り締めていました。
時には苦しみの中に置かれるとことがあります。そんな中で本文の母親のように恵みを与えてくださる神様への信頼を握り締めて祈り続くものとなりたいと思います。
「口から出るもの」 マルコの福音書7章14‐23節
人をどう判断するかということについて、その人の外側に見える行ないや姿によって判断するのは多いと思います。その時に主な判断基準になるものは内側のものではなく外側のものです。ところが、このようなことは今の時代だけではなくイエス様の時代にも同じような現象がありました。イエス様の当時にも人間の外側の姿や行ないをもってその人が汚れたのかどうか判断する人たちがいましたが、それはパリサイ人や律法学者たちでした。彼らは外側のことを重要視し、それに関する規定を厳しく守りました。そしてその規定を厳しく守ることによって自分たちはきよいと思ったのです。
本文の内容は、イエス様の弟子たちが手を洗わないでパンを食べる姿を見たパリサイ人や律法学者たちからイエス様への質問で始まりました。そのような弟子たちの姿を見たパリサイ人たちは、如何して昔の人たちの言い伝えを守らないのかという質問をしています(5節)。それに対してイエス様は外側のもの、即ち手を洗わないでパンを食べるという行ないが人を汚すことは出来ないと答えられました。汚い手を食べ物を食べたとしても、その人まで汚れることではありません。何故なら、そのようなものは人の心には入らないで、腹に入ってかわやに出されてしまうからです(19節)。たま、汚い手を食べ物を食べたとしても、その食べ物そのものが汚れることでもありません。
人間は外側からのもので汚れることではなく、内側のもの、即ち心の中からの悪い考えによって汚れるのです。人を汚すことの根本は心にあるのです。その心には悪い考えがあって、その悪い考えからどんどん悪い思いや行ないが外側に現れて出るのです。私たちの口から出るものはどんなものでしょうか。口から出るとは、心から出ると言うことであって、私たちの心から出るものが御霊の実であるように、いつも御霊の助けと導きを祈り求め、それに従って歩む者となりたいと思います。