「私を遣わした神様」 創世記45章1-8節
信仰者である私たちには、私たちの人生の中で起こるある出来事について人間の観点を持って見ることではなく神様の観点を持って受け入れる姿勢が必要です。私たちの目に見えるある出来事、私たちの苦しみや悩み、問題等を神様も私たちと同じ意味で語って下さるでしょうか。私たちの目に見えるその状況を神様はどのように思っておられるのでしょうか。果して、私たちと同じく思っておられるのでしょうか。多くの場合はそうではないと思います。
そんな中で、私たちの観点から神様の観点への変化、このような観点の変化は私たちの人生を新しく見ることが出来るようにしてくれるものです。そして神様は、私たちの観点をそのように変えて行かれます。本日の本文に出て来るヨセフも、自分の人生を神様の観点から考え、神様の観点を持って理解し受けれた者であると言うことが出来ます。本文の4節の後半でヨセフは兄弟たちに「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」と言います。これはヨセフと兄弟たちが知っている事実です。又は、私たちの目に見える現実とも言えると思います。しかし、5節以降のそれについてのヨセフの解釈は、徹底的に神様の観点からのものです。そのような辛い過去の事実についてヨセフは「神様は、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と3回も繰り返して説明しています。
このようなヨセフの告白から、ヨセフは神様の観点を持って自分の人生を見ていると考えられます。人間の目には兄たちがヨセフをエジプトに売ってしまった事ですが、実は神様がご計画の中でヨセフを先に遣わしたことなのだということでした。時には、私たちの人生はパズルのように思われることがあって、何故それが必要なのか分からない時があります。そのような苦しみの現実、問題、苦難等を目に見えることだけではなく、神様がそれを通して成し遂げてくださることを見ることが出来るようになりたいと思います。
「よみがえりのイエス様」 ヨハネの福音書11章17-27節
本日の本文は、愛する兄弟を失った二人の姉妹と、その死の悲しみが家に満ちている場面で始まります。彼らはイエス様が愛するマルタとマリヤ、そしてラザロです。11章1節を見ますと、ラザロは病気にかかっていましたが、それは軽いものではありませんでした。お兄さんの病気を心配したマルタとマリヤはイエス様に人を送り、その病気の事を伝え、イエス様に助けを求めました。しかし本文の17節を見ますと、そのラザロは「墓に入れられて四日もたっていた」と書かれています。死による絶望と悲しみに満ちているところで、イエス様はラザロをよみがえらせるという奇跡を行ないます。そしてそのとてつもない悲しみと信じられない奇跡の中で、イエス様との会話を通してマルタの信仰が変わることを見ることが出来ます。
本文の20節、21節、そして24節でのマルタの話しを通してマルタが持っていたイエス様についての思いを知ることが出来ます。マルタはイエス様がラザロの病気を癒すことが出来ると、そして神様に求めば何でも頂くことが出来るお方と知っていました。そして復活のことについても知っていたのです。ところが、20節や21節、そして24節でのマルタの答えは、マルタの信仰を言い表す事より、イエス様に対するうらみを話しているように聞こえます。何故、そのようなみ力を持っておられるイエス様がラザロが死なないうちに、或いは手を使うことが出来る時に来られなかったのですか、と。終わりの時の復活は知っていますが、しかし今ラザロは死にました、とです。
そのように思っていたマルタに、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」と、ご自分について教えてくださいます。そしてその後のマルタの答えは「あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」ということになりました。死と言う悲しみの中でもよみがえりのイエス様を信じ、その信仰によって堅くたつ者になりたいと思います。
「驚くべき招待」 第1ペテロ2章9―10節
教会ということばのギリシャ語はエクレシアということばですが、元の言葉はカレオーという言葉で、カレオーとは「呼ぶ」という意味です。ですから教会とは、神に呼ばれた者たちのことと言えるのです。この神様の招きは、どこからどこへの招きであるのかというと、「やみの中から光への招き」である、ということです。
9節に4つのことが書かれています。まず「選ばれた種族」―み言葉の中に、「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。つまり、人間が誇る物は何一つないということです。また「王である祭司」―「祭司」ということばのラテン語の意味は、「橋をかける人」ということです。ですから、神様と人との間に橋をかける働きを、クリスチャンは祭司として、しているということです。
次の「聖なる国民」―「聖」ということばは、「他とは異なる」という意味のあることばです。光を浴びる前は、自分のために生きていました。けれども光を浴びた後は、神様のために生きる者へと変えられていくということです。最後は「神の所有とされた民」―神様の手に握られている存在である、ということです。クリスチャンは愚かで貧しい者でしかないのですが、その所有者が神様であるということで、クリスチャンは驚くべき価値をもつことになるのです。
9節の最後のところで、「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と教えています。ここで言われています「すばらしいみわざ」とは、一言で言えばキリストの十字架のみわざのことです。今朝のみことばは、自分のそばにいる人たちが、神様の愛の対象の人であり、自分を通してその愛をいただく人なのだ、ということを発見するためのみことばとして、聞きたいと思います。
「真の光に照らされ」 ヨハネの福音書9章1-7節
本日の聖書に出て来る人は、生まれつきの盲人でした。文明と科学が輝いている現代においても目の見えない人が生きて行くというのは非常に大変なことです。そうなのに、二千年前には言うまでもないことでしょう。おそらく、この人はどこに行っても自分一人では生活できない、そして誰かに助けてもらったりしないと行けない状況であったと思います。9章8節を見ますと、この人について他の人々は「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」と言っています。そのように道端に座り込んで、その道を通り過ぎる人々に助けを求めて、他の人々からの助けがなければ生きて行けない状況でありました。これだけでも今までの彼の人生がどれ程大変なものであったのか、想像できることだと思います。
そのような彼を見た弟子たちは、イエス様に「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と質問します。こういう弟子たちの質問は当時のユダヤ人たちが一般的に持っていたものであろうと言っても、非常に冷たいものでありました。この哀れな人に対する同情や憐れみ、又は彼をかわいそうに思う心はなく、冷たい視線で彼を見て質問をしているのです。ところが、それに対するイエス様の答えは、全く違うものです。3節にありますが、先ずは弟子たちの考え方が間違ったことを指摘し、彼が生まれつきの盲人であるのは罪によることでことではなく「神のわざがこの人に現われるため」なのだと答えてくださいました。そしてご自分について「わたしは世の光です。」と説明してくださいます。
暗やみの中にいる時は、何も見えず何も分かりません。自分の人生がどこに行くのも分からないまま、苦しみと辛さの中でさまよっているだけです。ところがそんな暗やみに光が照らされると、自分の人生の意味を知り神様のみわざを知るようになるのです。真の光に照らされ、神様を見上げて歩むものとなりたいと思います。
「私はこう確信する。」 ローマ人への手紙33-39節
パウロは大変な迫害の中を通って来ました。本文の35節と36節に書かれていることは他人のことではありませんでした。コリント人への手紙第二11章23節―27節に書かれているように、パウロは様々な患難と苦しみ、迫害の中にいました。また飢えも裸も、命を脅かす危険や剣をもあったのです。そのような自分の人生の経験について「ほふられる羊とみなされた」と言うほどの道を歩んで来たのです。そのような苦難と危険、迫害の中に置かれていましたが、パウロは35節の最初に書かれているように「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。」と、そういうことは出来ないと断言しているのです。
このように言葉に説明出来ない程の苦しみと絶望、苦難と迫害の真中にあったパウロが35節のように語り、その全てを乗り越えることが出来た決定的な根拠は何でしょうか。それは38節を39節でのような確信を持っていたからであると思います。本当に素晴らしい信仰告白です。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」私たちにも大きな力と慰めとなるみことばです。パウロは自分の命が脅かされている状況の中でも神様からの愛についての確信を持っていたのです。そして外側からの迫害がどんなに大きな者であるとしても、たとえ全世界が、全宇宙が自分に襲いかかって来るとしても神様の愛から引き離すことは出来ないと確信をもっていたのです。
ピリピ人への手紙1章6節に「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」と書かています。神様が私たちを守って下さり導いて下さる、という確信の中で、どんな苦難があっても、どんな悩みや問題があっても、私はこう確信するという告白を持って生きて行きたいと思います。
「限りない神の愛」 ローマ人への手紙 8章31-39節
聖書は、神様は愛の源であり、愛そのものであると教えています。そしてその神様の愛は限りないものです。その愛は永遠なものであり、完全であって乾くことなく私たちに注いで下さる愛です。本日の本文は、そのような神様の愛について良く教えてくださいます。そんな中で本日は31-34節のみことばを通して限りない神の愛について考えて見たいと思います。
先ず、神様は私たちの味方となられて、その愛を現わしてくださいます。本文の31節に「神が私の味方であるなら」とありますが、私たちがそのような確信をもって生きて行けば、その人生はどれほど力強く、恐れることのない人生になるでしょうか。この全世界を造られた全能の神様が私たちの味方だとしたら、一体だれが私たちの敵となることができるのでしょうか、ということです。聖書はクリスチャンの人生が歩みやすいものだと言いません。この世が、そしてこの世をしばらく支配している悪魔や悪霊どもも私たちの敵となって攻めて来ます。そんな状況の中にいる私たちに、神様は私たちの味方となって下さるのです。そしてその神様は私たちのために「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」方なのです。罪人である私たちのために、神様はご自分において最も大切なひとり子イエス・キリストを死にまで渡して下さいました。それも惜しまずに渡してくださったのです。というのは、最も大切なものさえも渡してくださったお方が、それより小さなものを与えてくださらないはずがない、ということです。
たとえ私たちが色々な悩みと問題で囲まれているとしても、家庭のことで如何すれば良いのか分からない状況に置かれているとしても、どんな状況に置かれていても私たちの味方となってくださる神様のことを良く覚えたいと思います。また、そのお方は私たちのために御子キリストをさえ惜しまずに渡して下さいました。そのような神様の限りない愛を覚えて、それに感謝し喜びをもって生きて行く者となりたいと思います。
「求める人たちに」 ルカの福音書11章5-13節
本日の本文は、お祈りをする者の姿勢やその志しについて教えてくださる例え話として私たちに良く知られている内容です。特に11章8節での「あくまで頼み続けたら」という表現は、断られた状況であっても諦めないで祈り続ければ必ずその祈りは聞かれる、と信者の祈りの姿勢に大きな励ましを与えるみことばとして良く引用されたりします。ところが、今日のみことばは祈る者の姿勢より、その人の祈りに答えてくださる神様の憐れみ深さと愛が教えられているのです。
先ず5-8節での例え話では、友達であるということでは友人の頼みを聞いてくれない人でさえも頼み続ければ、その聞いてくれるということが描かれています。であるなら、天の父である神様はなおさらのこと、如何してあなたがたの祈りに答えてくださらないでしょうか、ということです。即ち、私たちの祈りに答えてくださる天の父なる神様のことが強調されているのです。そして11-13節においても子どもが願う物に対して決して悪い物をもって与える父親はいないということが語られています。罪人の人間さえも、父親は自分の子どもに良い物だけを与えようとするということです。そうであれば、なおさらのこと、私たちの天の父である神様は私たちの祈りに良いものだけを与えてくださるということです。そのような天の父なる神様のことを覚えて、求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます、ということです。
私たちの祈りを振り返って見ましたら、どうでしょうか。そのような神様を仰ぎ見て祈りをしているでしょうか。私たちの祈りに必ず答えてくださる神様を信じて諦めず祈り続けているでしょうか。天の父なる神様は、私たちに対する愛のゆえにひとり子イエス・キリストさえも遣わしてくださいました。その神様が私たちの祈りに答えてくださって、最も良い聖霊を与えてくださることを信じて祈り求める者になりたいと思います。
「右にも左にもそれずに」 ヨシュア記1章1-9節
本日の本文は、イスラエルの偉大な指導者であるモーセの後を継いで、新しく指導者になるヨシュアに神様が励ましを与えて下さる内容です。本文の中で神様はヨシュアに三つの約束をして下くださいます。それは、見放さず見捨てないこととイスラエルの先祖たちに与えると約束してくださった地を継がせてくださること、そしてモーセとともにいてくださったようにともにいてくださることです。神様は、ヨシュアにこのような約束と励ましを与えてくださって、二つのことを命令します。一つは雄々しくあれ強くありなさいということです。そしてもう一つはあなたに命じたすべての律法を守り行ないなさい、ということです。
そして7節で、すべての律法を守り行なうことにおいて「これを離れて右にも左にもそれてはならない」と仰いました。ここで神様はヨシュアに強調しておられることは、律法守りなさいということです。イスラエルの民を導いてカナンの地に入る時、そして入ってからも、モーセを通して教えてくださった律法を守り行ないなさい、ということです。ところが右にも左にもそれてはならないと仰いましたが、それは新しい指導者になるヨシュアにすべての律法を正確に守り、そこから右にも左にもそれない指導者になりなさい、ということです。また、多様な考え方をもっているイスラエルの民を、みんな抱くことが出来る指導者になりなさいということとして取ることが出来ます。
そのために私たちは神様の愛によって満ち溢れ、その愛をもって隣の兄弟姉妹に接して行かなければなりません。それは相手の考え方が自分の考え方と違うことを認め受け入れるためです。そしてもう一つは、自分の考え方だけが正しいという思いを捨てなければなりません。自分が経験したことが正しければ違う経験をした相手も正しいという考え方をもって、相手の考え方をも受け入れなければならないのです。私たちが愛の中で、互いに違うことを尊敬する時、多様な私たちの姿や思いが調和を保ち、共に歩んで行くものになりたいと思います。
「主の祈り」 ルカの福音書11章1-4節
本日の本文は、イエス様が弟子たちに教えて下さった祈り「主の祈り」です。ところが、ルカの福音書の本文を読みながら少し違和感を感じる方もいらっしゃるかも知れません。普通、私たちが良く使う主の祈りはマタイの福音書6章9-13節に記されているものです。それと今日の本文を比べて見ますと、内容も短ければ表現も違います。とは言え、二つの祈りが違うものではありません。祈りの内容を見ますと、最初に呼び掛けがあって、その次に神様のための祈りがあって、最後に私たちのための祈りがありまして、イエス様が教えてくださろうとするものは同じです。
その内容を見て見ますと、最初に「父よ」と書かれています。それは、私たちに神様を父と呼び掛けなさいと教えてくださることです。それは、私たちが神様と父と子の関係の中で祈ることが出来るということです。かつては罪によって神様の御前で自分の身を隠し、神様から離れて、神様に対して敵であった私たちでした。しかし、今はキリストを信じる信仰によってその罪が赦され、神様の子どもとなったのです。ですからその神様からの恵み、測り知れない愛を覚えて、父なる神様を覚えて祈りなさい、と言う事です。
そのような神様の恵みと愛を覚えて祈る時、私たちは自然と神様の御名をほめたたえるようになるのではないでしょうか。ですから、最初の祈りは、神様のための祈りが教えられているのです。そして3節と4節には、私たちの霊肉ための祈りが教えられていますが、それは私たちの弱さを覚えて、神様に頼りつつ生きて行きなさい、と言う事です。私たちは、すぐ神様からの恵みを忘れてしまい、自分の力に頼りがちな者ですが、そんな私たちに神様によって私たちの日々の必要が与えられ、霊的な必要も満たされて、生かされていることを教えてくださいます。この主の祈りを通して神様の恵みを覚えてその御名を賛美し、自分の弱さを覚えて神様だけに頼り、神様から頂いた愛を他人に施して生きるものになりたいと思います。
「必要なこと一つ」 ルカの福音書10章38-42節
本日の本文でエルサレムに向かって旅を続けていたイエス様は、ある村に入られます。そこにはマルタとマリヤの家がありまして、イエス様のことを聞いたマルタはイエス様の一行を自分の家に迎えました。そしてマルタはイエス様と弟子たちにもてなしをするために忙しくしていました。ところが、彼女の妹のマリヤはイエス様の足もとに座って、姉の忙しさは気に掛けずイエス様のお話しを聞いているだけでした。そんな中で、あまりにも忙しく思ったマルタはイエス様のところに行って、自分の状況を話してマリヤに手伝いをするように話してくださいと言いました。
そのようなマルタからの話しに答えて下さったのが41節、42節ですが、この時のイエス様の答えは意外なことでした。ところが、ここで私たちが注意しなければならないことは、決してイエス様はマルタのことを責めたり、非難したりしてないということです。イエス様は、マルタの家についてからマルタがイエス様と弟子たちのために一所懸命にもてなしをし、美味しい食事を準備している姿について何も仰らなかったのです。何故なら、そのようなマルタの姿もイエス様を愛し、イエス様のためにやっていることであるからです。
ところが41節と42節のマルタに対するイエス様の答えを良く見ますと、最初のマルタの姿とは変わっていることが分かります。最初、マルタはイエス様の一行を喜んで迎えました。しかし何時の間にかその喜びは失わってしまい、色々な事を準備しなければならないということから気が落ち着かず、心配して気を使っていたのです。そういうマルタに向かって話してくださったことが「必要なことは、ただ一つだけです。」ということでした。それは色々な事が必要ですが、先ず私の言葉に耳を傾け、それに聞きなさいということです。そこから自分に与えられた真の喜びを覚えて、その喜びの中で奉仕しなければならないということでしょう。私たちも先ず、私たちにしてくださった恵みを覚えて、それを喜ぶ心をもって奉仕するものになりたいと思います。