礼拝メッセージ要旨

12月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「忠実な管理人のように」            ルカの福音書12章41-48節
 本日の本文はペテロの質問から始まります。イエスさまは35節以降で婚礼から帰ってくる主人を待っているしもべたちについて例え話をしてくださいました。その例え話を聞いていたペテロは、弟子である自分たちに話して下さるのか、それともそこに集まっていた多くの人たちに話してくださったのか、疑問になって質問したと思います。
 そんなペテロの質問にイエスさまは直接に答えてくださらないで、忠実な管理人と不忠実な管理人の話しをしてくださいます。先ずは忠実な管理人について話してくださいますが、彼は主人の存在をきちんと覚えているしもべでした。そこから自分に何を任されているのかといことを覚えてその任された仕事に最善を尽くす者でした。そしてそのような姿が忠実な思慮深いということでした。そのようにいつも主人の存在を覚えてその主人から何を任されているのかということを覚えてそれにいつも忠実に、そして思慮深く行なう管理人、そのような管理人は主人が帰って来て主人に褒めてもらうのでした。ところが、そうしなければならないしもべが、自分の立場を忘れてしまいとどうなるのでしょうか。そのようなしもべは、主人の帰りはまだだと思って自分が主人のように振る舞ってしまうのでした。
 ところが、重要なことは主人は必ず帰って来るという事実です。その時は知りませんが、主人は必ず帰って来て忠実なしもべには主人の全財産が任されます。そして不忠実なしもべにはひどく罰せられ、鞭打たれるようになるのでした。この例え話は教会の中でリーダーのような立場、即ち牧師等に言われているものだと言います。しかし、その話しを少し広げて考えて見ますと、クリスチャンである私たちは皆、私たちの周りにいる人々を任された者です。ですので、私たちの主人であるイエス・キリストを覚えて、忠実な管理人のように、私たちに任されたことに最善を尽くして歩んで行きたいと思います。

12月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「罪を取り去る神」            サムエル記第二 12書1-13節
 本日の本文は、神様が預言者ナタンをダビデに遣わしてその罪を指摘してくださる内容です。初めにナタンは例え話をしますが、その例え話には富んだ者と貧しい者が出て来ます。貧しい者には自分の娘のように大切にしていた一匹の子羊がいました。ある日、富んだ者のところに旅人が来ました。それで富んだ者はその旅人にもてなしをしなければならなかったですが、自分の羊や牛は惜しんで貧しい者の一匹の子羊を取り上げて、それで調理をして出したのです。
 そのようなナタンの話しを聞いていたダビデは、それが自分のこととは思わず、その富んだ者に対して死刑だ、あわれみの心もないのだと話します。このダビデの話しを聞いていたナタンは、ダビデに「あなたがその人です。」と告げます。そして本文の7節と8節でその理由を説明しました。そこには、神様がダビデに有り余るほどすべてのことを与えてくださったのに、ダビデはそのような神様の戒めをさげすみ、他人の妻を取り、その妻の夫は殺してしまったと言うことでした。このようにして神様はナタンを通してダビデの罪を指摘してくださいました。この時まで誰もダビデに対してその罪を指摘しませんでした。そしてダビデも自分の罪を悟ることが出来ず、色々な理由をつけて自分を弁護しようとしたかもしれません。却ってバテ・シェバが悪いとか、ウリアが悪いとか、その時に状況が良くなかったなど、自分の罪ではなく他人のせいにしていたのです。
 そんな時、神様はダビデの罪を指摘し教えてくださったのです。そしてダビデはそう指摘された時、すぐに「私は主に対して罪を犯した。」と告白しました。この告白こそ神様が求めておられたことでした。そのように悔い改めるダビデに対して、神様はその罪を見過ごしてくださる、と仰ってくださいます。本日よりアドベントが始まりました。私のために、私を罪と永遠の滅びから救ってくださるために来られたイエス・キリスト、そのキリストのゆえに私たちの罪を赦してくださる神様の恵みを覚えて歩んで行きたいと思います。

11月26日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「目を覚ましていなさい」            ルカの福音書12章35-40節
 ルカの福音書12章においてイエス様は弟子たちに弟子としての歩み方について教えておられます。そして本日の本文では、主人の帰りを待っているしもべの例え話を通して待ち続けることの大切さを教えてくださいます。本文の例え話で出て来る主人はイエス・キリストであり、しもべは弟子たち、またはクリスチャンのことです。そして主人か帰って来ると言うことは、イエス様が再びこのように来られる終わりの時、再臨のことです。しもぼたちが主人の帰りを待っているように、クリスチャンもイエス様が再び来られることを覚えて待ち続ける生き方をしなさい、と言うことが例え話の内容です。
 そのような例え話の中で、先ず私たちはしもべがどんな姿をして主人を待っているのかを見ることが出来ます。婚礼から帰って来られる主人ですが、その帰りを待っているしもべは主人がいつ帰って来られるのか全く分かりません。それが真夜中なのか、夜明けなのか分かりません。しかし主人が帰って来られた時、しもべは主人を迎えなければならないので、その準備をしていなければならないのです。特に腰に帯を締めて、あかりをともしていると言うことは、主人がいつ帰って来られても迎え得ることができるように準備しているしもべの姿です。イエス様は私たちにそのようなしもべであるように、と仰ってくださいます。
 そしてそのようにいつも準備をしていて、主人が帰って来られた時に主人を迎えたしもべに対して主人は驚くことをやってあげるのでした。それは、主人のほうが帯を締めてそのしもべのそばについて給仕をしてくれるということです。この世では考えられない風景ですが、それが私たちクリスチャンに与えられる恵みなのです。ですから私たちはいつその日が来るのかは分かりませんが、イエス様は必ず帰って来られるということとその時に私たちに与えられる恵みを覚えて、目を覚まして待ち続ける者となりたいと思います。

11月19日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神に頼る者」               サムエル記第一 5章1-5節
 ペリシテ人との戦いでイスラエルは大敗北し、主の契約の箱をも奪われてしまいました。戦争に負けてしまい、さらに主の契約の箱まで奪われたイスラエルはこのまま終わってしまうのかのようにも見えます。一方、イスラエルに大勝利を得て、神の箱まで手に入れることが出来たペリシテ人は、神の箱をアシュドデというところに運びました。そして本文の2節を見ますと、ペリシテ人は神の箱を彼らが拝んでいたダゴンの神殿に入れてそのダゴンの像の隣に置きました。
 ところが、その翌日、その神殿で不思議なことが起こりました。朝早く神殿に行って見ましたら、神の箱の前に自分たちの神であるダゴンが倒れていたのでした。そして、その次の日の朝、同じようなことがまた起こりました。朝早く行って見ましたら、また、ダゴンが神の箱の前に倒れていたのです。そして今回はもっとひどい状態でありましたが、頭と両腕が切り離されました。それでダゴンの胴体だけが残り、その胴体も神の箱の前にうつ伏せになっていたのです。これは神様が異邦の国、ペリシテにてご自分の力と栄光を現わした出来事でした。ペリシテ人は人の神、ダゴンがより強い神だと思いましたが、実は神様の力がより強いものであってペリシテ人の神はその御前にうつ伏せになっていたという事です。
 このように力強い神様の箱をもっていたイスラエルは何故ペリシテ人との戦いで負けたのでしょうか。それは自分の罪は悔い改めないで、ただ自分たちの目的、願いを成し遂げるために神様の力を使おうとしたからです。そのようなイスラエルには神の箱があったとしてもペリシテに負け、神様の栄光が去ってしまったのです。それを覚えて私たちは、私たちの神様に対する姿を振り返って見なければなりません。自分の罪を悔い改め、神様の憐れみを求め、神様に頼りつつ信仰の道を歩んで行かなければなりません。それで私たちの生き方を通して神様の栄光が現れる者になりたいと思います。

11月12日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の国を求めよう」            ルカの福音書12章22-34節
 前回、イエス様は互いに足を踏み合うほどにたくさん集まった群衆に「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」ということを教えてくださいました。神様を知らない人々は自分のために財産を蓄えて、それによって自分のたましいが安らぐと思います。それによってもっともっと自分のために物を集め、蓄えます。しかし、クリスチャンはそうであってはならない、とイエス様は仰います。本日の本文においては、神様の子どもであるあなた方は何を大切にし、何を求めなければならないのかといことについて教えて下さいます。
 本文の22節「心配したりするのは、やめなさい。」と言われたイエス様は28節の終わりのところでは「ああ、信仰の薄い人たち」と嘆息をなさいます。神様を知らない人々はこの世の物に頼り、それを如何すればもっとたくさん自分の物にすることが出来るだろうかと心配します。しかし、神様を知っていて信じている信仰者であるとしても神様への信仰が薄いものであれば、彼らのように何を食べるのか、何を着るのかで心配してしまいます。そこで神様がどのように養ってくださるのかを烏とゆりの花をもって説明して下さいます。烏は蒔きもしないで、刈り入れもしません。また、納屋も倉もありません。けれども、神様は烏をも養ってくださるお方です。また、ゆりの花もです。ゆりの花は紡ぎもしないで織りもしません。そうなのに、神様はそのゆりの花をソロモンよりも美しい衣服で着飾ってくださいます。
 そのように憐れみ深い神様は烏よりもゆりの花よりも大切なあなたたちを養ってくださらないわけがない、ということです。そのような神様のことを覚えて、神様の子とされたあなたたちは何よりも、まず神の国を求めなさいということです。烏もゆりの花もそうであったように、私たちの必要のすべてを知っておられる神様を覚えて、その神様が養ってくださることを信じて心配ややめ、神の国を求める者となりたいと思います。

11月05日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神に喜ばれる者」             ヘブル人への手紙11章1-6節
 本文の6節を見ますと神様に喜ばれる者は信仰がなくてはならない、と書かれています。その信仰は、同じく6節を見ますと「神がおられること」と「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じることであると説明されています。そして神様に喜ばれていた者としてエノクについて説明しています。エノクは創世記5章に出て来ますが、彼に関する内容はただの3節だけです。本当に短い内容ですが、エノクは神様とともに歩んだ、と書かれています。即ち、罪が増大していた世の中で神様がおられること信じ、その神様を信頼し、神様を覚えて生きていたということです。そのようなエノクについて本日の本文では、神に喜ばれていることが証しされていた、と書かれています。
 それでは罪人である私たちは、何を通して神に喜ばれることが出来るのでしょうか。それは礼拝を通してです。本日の本文にもう一人の神に喜ばれた者が出て来ますが、彼は4節のアベルです。アベルについては、アベルがささげたいけにえによって、義人であることの証明を得ったと書かれています。そしてカインとアベルのいけにえを比べながら、アベルはカインより優れたいけにえをささげ、そのささげものは神様に良いささげものだと証しされたと書いてあります。同じささげものであってより優れたささげものがあり、神様によいささげものだと認めて頂けるささげものがあれば、そうでないささげものもある、ということです。そしてそんな中で神様が喜ばれるささげものがあるということです。
 本文の4節には、その違いを「信仰によって」ということばをもって説明しています。信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神様にささげたし、神様はそのいけにえを喜ばれたということです。私たちがささげる礼拝はどうでしょうか。悪に満ちているこの世の中で、私たちは神様がおられることと神様を求める者に報いてくださるお方であることを信じて、神様に礼拝をささげる者になりたいと思います。

10月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「本当に豊かな者」               ルカの福音書12章13-21節
 本日の本のたとえ話は「愚かな金持ち」と呼ばれるものです。このたとえ話は四つの福音書の中でもルカの福音書だけに書かれている者ですが、しかしイエス様のたとえ話の中では良く知られている内容です。そのたとえ話の始まりはひとりの人がイエス様に遺産の分配についてお願いをしたことからです。当時、遺産の分け方がありましたが、この人の兄弟はそれを守らなかったでしょう。それについて、イエス様に解決して頂こうと思った彼でしたが、しかしイエス様は彼の心の中にある貪欲の問題を指摘してくださり「愚かな金持ち」というたとえ話をしてくださったのです。
 たとえ話の内容は非常にわかりやすいです。ある金持ちがいましたが、彼の畑が豊作でした。元々金持ちであった彼の倉庫はすでにいっぱいになっていたので、彼は豊作の作物を如何したらいいか、悩み始めました。それで思いついたのが今の倉庫を取り壊してもっと大きな倉庫を作り、そこに豊作の作物を全部入れて置くと言うことでした。それに思いついた彼は、自分のたましいに「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言ったのです。財産をたくさん蓄えることが出来た金持ちは、その財産によって自分のたましいがこれから安心して楽しむことが出来ると思ったことです。
 しかし、この時、神様からのことばは違うものでした。そのようにたくさんの財産によって安心している彼に対して神様は「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と話されました。そうなりますと、彼の財産はもう彼のものでなくなります。それで神様は自分のいのちを保証できないものをもって自分のいのちを守ろうとする金持ちに対して愚かな者と話されたのです。私たちの願いは誰に向かっているでしょうか。それが自分であるなら、それは神様の前では富まないものです。自分のために蓄えるものではなく、自分に与えられたものを神様に使い、神様の前に蓄えるものになりたいと思います。

10月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「キリストを主とする生き方」          ルカの福音書12章8-12節
 前回、ルカの福音書12章1-7節のみことばを通して恐れるべきお方を恐れることについて学びました。イエス様は十字架の出来事に近付いて行くことによって、迫害に直面する弟子たちに色々な弟子としての道を教えてくださいます。そんな中でパリサイ人のパン種のような偽善、即ち内を外が異なる振る舞いについて注意をしました。そして人間を恐れることではなく恐れるべきお方である神様を恐れなさい、と教えてくださったのです。人間は目に見えるものや人間、或いはこの世を恐れます。しかし、神様の民であるあなたがたはそのような目に見えるものや人間ではなく、私たちの死の後に審判をされる神様のことを覚えてそのお方の前に立つ信仰者として、自分に与えられた信仰を堅く守りなさい、と言うことでした。
 そして神様のことを説明して8-10節においては人々の前で自分の信仰を言い表すことへの励ましを与えてくださいます。そんな中でイエス様が話してくださったのは最後の審判の場面でした。その最後の審判において、私たちの唯一の弁護者となってくださるのはキリストです。そしてそれは私たちが人々の前でキリストを主として認めるか、認めないかによって掛かっていると仰るのです。自分の信仰をちゃんと告白するかどうか、それを言い表すのかどうかが、最後の審判の時にまで繋がることでした。もう一度、私たちの信仰生活の姿を振り替え見させる教えであると思います。
 そのような重大なことにおいて、たとえ認めなかったとしても全ての罪を赦して下さることを覚えなさいを仰ってくださいます。それがイエス様をそしる、大変酷いことであって、その罪を悔い改めるものは必ず赦されると私たちを励ましてくださるイエス様です。そして自分の信仰を言い表さなければならないところに立たされても、聖霊が言うべきことを教えてくださるとも仰ってくださいます。そのように教えて下さるイエス様の教えを覚えて、どんなことがあってもただキリストを主として告白する生き方を生きる者になりたいと思います。

10月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「恐れるな」                 列王記第二 6章15-23節
 本日の本文は、イスラエルとアラムが戦っていた時の内容です。アラムの王はイスラエルを攻めて行きますが、度々にその計画が失敗しました。それで自分の家来の中にイスラエルの王と通じているものがいるのか疑い始めました。しかしそれは預言者エリシャによることであって、神様からの不思議な力でアラムの王が計画することを知り、それをイスラエルの王に報告したのでアラムの王の計画は何回も失敗していたのです。それでアラムの王はそのエリシャを捕えようとしてエリシャがいたドタンといる町に大軍を送り、その町を取り囲んでいたのです。
 そんな中でエリシャの召使いが朝早く起きてその状況を見ました。前日まで何もなかったのに、何時も間にかアラムの大軍が自分たちの町を包囲している姿を見て驚き、エリシャにその状況を伝えました。恐らく召使いは大変驚き、恐れてエリシャの方に行ったと思います。ところが、恐れている召使いに対してエリシャは「恐れるな」と言います。そして「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多いのだから」と説明しました。召使いが見た時は、自分たちの町を取り囲んでいるアラムの大軍しかありませんでした。そうなのにエリシャが召使いに語ったのは如何ことでしょうか。
 そこでエリシャは神様に「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈りました。すると、その召使いの目が開かれ、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた姿を見ることが出来るようなったのです。本文に出て来るエリシャと召使いは同じ状況に置かれていました。しかし、同じ状況に置かれているとしても、何をどう見るのかによってその反応は全く違うものであったのです。同じ現実を見てもその背後で働いておられる神様、守り導いて下さる神様のことを見れるのかそうではないのかと言うのは、全く違うものなのです。私たちの目には、何が先に見えるのでしょうか。私たちの目も神様によって開かれ、神様の守りと導きを見ることが出来てどんな状況の中でも神様を見上げて歩んで行きたいと思います。

10月8日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「御霊の教えに従う」             ルカの福音書12章1-12節
 イエス様は公生涯の後半、その中でも十字架の出来事が近付ければ近付くほど弟子たちにイエス様ご自身について、そして弟子として歩むべき道について教えて下さいました。彼らがこれから直面するようになるこの世からの脅かし、すなわちユダヤの指導者たちの迫害について弟子としてどうするべきなのかということを教えて下さるのです。
 時間が経つことに連れ、イエス様とユダヤの指導者たち、特にパリサイ人や律法学者、祭司長たちとの関係は悪くなり対立は激しくなります。そんな中で彼らはイエス様をどうにかしようと心を決めて、イエス様が何か間違ったことがないかひそかに計っていました。そういう流れの中で弟子たちへの迫害は十分予想できることです。そういう弟子たちにあるだろうと思われる苦難に備えてイエス様は弟子たちが歩むべき信仰の道について教えて下さったのです。特に本日の本文では、弟子たちがこれから神様は恐れないで人間を恐れることがないように教えています。そしてその人間を恐れることによって迫害の中で自分の内側の信仰を隠し、外側ではイエス様を知らないというようになります。そしてそれは偽善的な姿であって、イエス様が今まで大変厳しく注意をしたものなのです。弟子たちは目の前にいるユダヤの指導者たちの権威を恐れ、イエス様から逃げ、イエス様を知らないと言います。そうならないようにイエス様は弟子たちを教えておられるのです。
 それでは私たちが偽善的にならないためには如何すれば良いでしょうか。それは恐れるべきお方である神様を恐れ敬わなければならないのです。そしてその神様は私たちの頭の毛さえも数えられているお方であって、私たちを大切にして下さるお方なのだということを忘れてはいけません。またどのような状況の中でも私たちと聖霊がともにいて下さって私たちを導いて下さるのです。そんな中で私たちははっきりとキリストが主でさることを言い表し、実生活の中で証しして行きたいと思います。