「命と平安」 ローマ人への手紙8章5-8節
本日の本文には二つの種類の人々は出て来ます。一つは肉に従う人であり、もう一つは御霊に従う人です。すべての人々はこのどちらかに属していますが、パウロはその二つの種類の人々を対比しながらその違いを強調して説明しています。
先ず5節をご覧になりますと「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」とあります。ここで肉とは、罪によって堕落した人間の本性のことです。罪人の本来の状態とも言うことが出来ます。そのような人は、肉的なことをもっぱら考えます。それは、その人の心が肉的なことによっていっぱいになって、それが生き方の中で表われることです。使徒ヨハネはそのような人々は世を愛する、世のものを愛する人(Ⅰヨハネ2:15)だと言います。そして肉的なこととは、具体的にはガラテヤ人への手紙5章19節以降で説明されています。そういう肉の思いは死であり、それは「神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しない、服従できない」からです。
その反面、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。御霊は私たちにキリストについて教えて下さり、そのお方を証しして下さいます。ですから、御霊に従う者はイエス・キリストを知り、そのお方を遣わして下さった神様の恵みと愛をも知るようになるでしょう。また、御霊は父なる神様のみこころを知り、それを私たちの教えて下さいます。それによって私たちは神様のみこころを知りそれに従って行き、神様に喜ばれる人生を歩むのです。そういう私たちには命を平安が与えられるのです。
私たちは神様の恵みの愛によって救われ、神様は喜ばれるままに、御霊の導きに従って生きることが出来るようになりました。しかし、完全なものではないため、時には罪を犯し失敗をすることもあります。そんな中でも、御霊に従って歩むものであることを覚えたいと思います。
「招いてくださる神様」 ルカの福音書14章15‐24節
本日の本文でイエス様は「盛大な宴会」というたとえ話をしてくださいます。それはイエス様の話しを聞いていた一人の人がイエス様に「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言ったことからのことでした。前の段落でイエス様は、パリサイ派の指導者の家に招かれて食卓についている人々に「義人の復活のときお返しを受ける」と言うことについて語られました。それを聞いたパリサイ人は、自分たちこそ神の国で食事を、神様よりお返しを受ける、何と幸いな人なのかと思い、それをイエス様に話したことだと考えられます。
そのように思っていたパリサイ人たちに「盛大な宴会」のたとえ話をしてくださいます。最初に「盛大な宴会を催し、大勢の人々を招いた主人」が出て来ます。この主人は宴会のすべての準備をしておいて、宴会に行きますと答えた人々に僕を送ってその知らせをします。ところが、その宴会の話しを聞いた人々は、みな同じように断わり始めます。ある人は畑を買ったのでどうしても畑を見に行かなければならないと、ある人は五くびきの牛を買ったのでその牛を試しに行かなければならないと、そしてある人は結婚したので行けないと、盛大な宴会への招きをそれぞれの言い訳をもって断ります。このような断り方は宴会を用意した主人にとっては非常に侮辱的なことです。そのような話を聞いた主人は、彼らに怒って当然の話しです。
しかし、この主人は怒りの代わりに憐れみを、そして恵みを示して下さいました。そして宴会を取りやめることではなく、急いで僕を送り、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちを宴会に招いて下さいます。そして自分の家がいっぱいになるように、無理にでも人を招いて来るように、と話します。この主人は父なる神様でした。私たちに「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができました」とご自分の宴会に招いてくださるお方なのです。その神様の憐れみと恵みを覚えて喜びと感謝をもって生きて行きたいと思います。
「神の箱が奪われる」 サムエル記第一 4章12‐22節
本日の本文にはイスラエルの悲惨さがそのまま表われています。ペリシテ人との戦いで負けてしまったイスラエルは、約3万人程の人々が殺されます。そしてその戦場に担いで行った主の契約の箱までペリシテ人に奪われてしまいます。ペリシテ人との戦いで負けて多くの人々が命を失う、それだけでも大変なことなのに、神様の御臨在の象徴である神の箱まで奪われてしまうという絶望に陥ってしまいました。そしてそれで終わった事ではありませんでした。その知らせを聞いたイスラエルの人々は町中こぞって泣き叫びました。そしてその時の祭司であるエリは、その衝撃の大きさにより座っていた椅子からあおむけに落ち、首を折って即座に死にました。また、エリの嫁はその話しを聞いて陣痛が起こり、男の子を産みましたが、喜ぶところか「気にも留めなかった」と、その時の悲惨さを伝えています。さらに、その子の名前を「イ・カボテ」即ち「栄光がイスラエルから去った」とつけて、絶望に落ちているイスラエルの状態をそのまま現わします。ペリシテ人に負けてしまい多くの人々は命を失い、神の箱は奪われてもはや神様の栄光は去ってしまった。それがイスラエルの状態でした。
しかし、神様の導きはそのような絶望で終わってしまう事ではありませんでした。希望とは少しも見えない状態の中で、神様はイスラエルを見捨てません。諦めません。再び、神の民としての道に導いてくださり、祝福への導いてくださいます。神を捨てて偶像を拝んでいたイスラエル、その罪を悔い改めず、かえって神様をペリシテ人との戦いで勝利のために利用しようとしたイスラエルを、赦してくださり再び悔い改めの道へと導いてくださいます。私たちの目にはすべてが終わってしまったかのように見え、それ以上望みとは期待できない状況であるとしても、神様は変わることなく私たちを神の民としての道へ導いてくださるのです。
「高くしてくださる神様」 ルカの福音書14章7-14節
本日の本文は、前の段落の続きでありまして1-6節でイエス様が水種を患った人を癒してくださって帰された後の場面です。ところが良く読んで見ますと、前の段落と逆の状況になったことがわかります。最初は、パリサイ人たちがイエス様を見つめていました。それはイエス様が安息日に水種を患っている人をどうするのか、ということを見ていたことでした。しかし、7節以降では、イエス様が彼らの姿をご覧になって、パリサイ人たちに一つのたとえ話をしてくださいます。
その家の中で招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になったイエス様は次のようにお話しします。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。」そしてその理由は「あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれない」ということでした。そしてその人より偉い人が招かれているならば、招いた人は先に上座に座ってしまった人にきて「この人に席を譲ってください」というからです。そして上座を選んで座った人はどうなるのかを言いますと恥をかいて、末席に着くことになるのでした。それはすでに他に招かれた人々がそれぞれのところに座っていて、席がなくて末席にしか座ることが出来ない状況であったからです。自分の地位や立場などを考えて自分は上座を選んで座ろうとしましたが、しかしそれは招いた人によって決められることでありました。
そこでイエス様は恥をかくようなことはしないで「招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。」末席に座るというのは、自らそのような高ぶりをしないということでしょう。そしてそれには末席であっても心満たされたことによって満足できるということです。私たちは自分の力で自分を偉い人にしたいと思うことはないでしょうか。しかしイエス様は、そのような人々は神様によって低くされると語られます。逆に神様の恵みと愛によって心満たされ、どんな席でも満足できる者は、たとえこの世では末席のようなところにいましたが、やがてのあの時には神様によって高くされるのです。
「悔い改めなさい」 使徒の働き2章36-41節
本日の本文はペテロの説教とその説教を聞いた人々の姿が出て来ます。本文の36節は2章14節から始まった説教の結論であって、その最後には「イエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」とあります。この日は五旬節の日であって一か所に集まっていた弟子たちは聖霊に満たされました。そして聖霊によって他の国の言葉を話し始めたのです。それを聞いていたユダヤ人たちはそれを不思議に思い、弟子たちに甘いぶどう酒によっていると嘲りましたが、それに対してペテロが説明し、イエス・キリストの死と復活、そして昇天に説明しました。そして最後に「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と話した次第です。
そのようなペテロの話しを聞いていた人々の反応は「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」ということでした。それはペテロの説教を聞いて心を刺され、自分たちがどのような罪を犯してしまったのかを知り、如何したらいいのか、ペテロと弟子たちに聞いた事なのです。そういう人々にペテロが答えたのは「悔い改めなさい」そして「罪の赦しをいただくために、バプテスマを受けなさい」そして「そうすれば、聖霊をうける」ということでした。最初の悔い改めるとは、自分の考えたかを変える、または方向転換をするという意味です。ですから、今まで生きて来たことが間違っていた事を知り、そこから立ち返ることです。罪の道から立ち返って神様の子どもとして道を歩んで行く事です。そしてその悔い改めと罪の赦しのしるしとしてバプテスマを受けるのです。そうすれば聖霊が与えられます。
そういう私たちに、神様は今日も悔い改めなさい、と語ってくださいます。すでに全ての罪を赦して頂いた私たちでありますが、時には罪を犯してしまうことがあります。その時に、自分の罪を認め、それを悲しみ、その罪から立ち返って再び同じ罪を犯すことがないように努力し祈り求めて神様に喜ばれる道を歩んで行きたいと思います。
「抱いてくださるイエス様」 ルカの福音書14章1-6節
福音書の中にはイエス様が安息日に病院を癒してくださった内容が何回も出て来ます。右手のなえた人も、ベテスダの池で38年間も病気にかかっていた人も、またシロアムの池での目の見えない人も、安息日にイエス様に癒された人々でした。その度にそこにいたパリサイ人や律法学者たちは、自分たちが守っていた安息日の規則をもってイエス様を非難しようとしましたが、しかしイエス様はそのような彼らに安息日の本当の意味を教えてくださいました。本日の本文も「ある安息日」にイエス様がパリサイ派の指導者の家で水種を患っている人を癒してくださいました。
当時、安息日に神様を礼拝し、食事会をすることは普通の光景でした。その町の指導者や偉い人は、みことばを話してくださった先生を自分の家に招いて共に食事をしながら教えを頂くということでした。本日の本文の家もそのような光景であったと思われます。1節に出て来るパリサイ派の指導者の家に、イエス様が招かれたことなのか、イエス様がその家に行かれたことなのかは分かりません。しかし、その家の中にいた人々はイエス様をじっと見つめていて、これからイエス様は何をどうするのかと言う事を非常に注意深く見ていました。何故なら、その家の中には一人の水種を患っている人がいまして、その人を見たイエス様が安息日に彼を癒してくださるだろうか、ということを見るためでした。それは、律法の専門家やパリサイ人たちが安息日の規則をもってイエス様を罠にかけようとしたことだと考えられます。
ところが、イエス様は見つめていた人々に「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と質問されます。その質問に対して何も答えることが出来ず黙っている間、イエス様はその病人を抱いてくださり、彼の病気を癒してくださって帰らせました。イエス様は何よりもその病人のことを大切にしてくださったのです。そういうイエス様の愛を思えて、そのイエス様に抱かれて神様のみこころに従って歩む者となりたいと思います。
「カレブのように」 ヨシュア記14章6-15節
本日の本文を含めてヨシュア記14章以降では、イスラエルが征服したカナンの地を各部族に割り当てる内容です。ヨシュア記12章までカナン征服のための戦いが終わり、各部族にその地を割り当てますが、13章にはヨルダン川の東側でのことが書かれています。そして14章以降からヨルダン川の西側で残りの部族への割り当てが続きます。ですからヨルダン川の西側での割り当ての内容の中で、最初に出て来ることが本日の本文であってカレブの話しなのです。
イスラエルはヨルダン川を渡って、最初はカナンの中央を、その後南の方を、最後には北の方を征服しました。ところがその戦いの中で全ての地を征服し、全ての部族を追い払った事ではありませんでした。あるところは、まだ征服出来ず残っている部族もありましたが、ヘブロンの山地のその中で一か所だったのです。そこには丈夫で大きな城壁をもつ町が多くあり、そしてアナク人という強い人々が住んでいましたので、イスラエルはその地を占領する事ができなかったのです。ところが、ユダ部族に属していたカレブは最初に出て来て「主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」とヨシュアに求めました。このようなカレブの姿を通して、私たちは彼の変わらない信仰とその信仰から出て来る勇気を学ぶことが出来ます。
先ず、カレブはヨシュアに45年前の出来事をその時の約束を思い起こさせます。そしてその時も、今までも「私は私の神、主に従い通しました。」と語ります。カレブは彼の人生を通して、神様に従い通して来たのです。いかなる状況の中でも神様だけを見上げ、その時頂いた約束が成就されるという信仰を持ち続けてきた、と言う事です。そのようなカレブは神様がともにいてくだされば、あのアナク人とも戦って勝つことが出来るという勇気をも持っていたのです。私たちの人生の中にどんなに大変な苦しみがあるとしても、カレブのように神様に従いつつ、信仰の道を大胆に歩んで行く者になりたいと思います。
「進むべき道を歩む者」 ルカの福音書13章31-35節
本日の本文の中で、イエス様は命の脅かしの中でも御自身の道を真っ直ぐに歩んで行かれる姿を見ることができます。そしてその道の最後には十字架というイエス様ご自身の死というものが待っていることです。そのような道を、イエス様は最初から最後まで黙々と歩んで行かれます。その道の中にあらゆる苦しみや迫害、妨げがあっても、全く動揺しないで歩んで行かれます。いかなる苦しみの中でも、どんな試練の中でも十字架に向かう道を止めることはありませんでした。その道を進み歩んで行くイエス様のお姿でした。
本文で出て来るパリサイ人たちによりますと、ヘロデがイエス様を殺そうとしていました。しかし、それに対してイエス様は「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。」(32節)と、そして続けて「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」(33節)と繰り返して語られます。即ち、どんな脅かしがあっても、これからもご自分の道を歩んで行かれるということです。それには、たとえ命への脅かしがあるとしても、この世には従わない、ただ神様のみこころだけに従うということがあるのです。歩むべき道にどんな苦しみがあるとしても、それがご自分の命を脅かすことであるとしても神様のみこころに従って進み歩むということです。
このようなイエス様の姿から、私たちは神様の恵みと愛を覚えることが出来ます。神様はその愛のゆえに御子キリストを遣わしてくださいました。そしてキリストもそのみこころに従ってこの世に来られ、この世でのどんな苦しみの中でもひたすら十字架への道を歩んで行かれたのです。私たちもそのようなイエス様の姿を学び、私たちに与えられているこの信仰の道を、神様への確信をもって、そのみこころに従って歩んで行きたいと思います。神様の守りと導きの中で愛の道を歩んで行くものとなりたいと思います。
「神さまのみこころをより深く知ることができますように」ヨナ書4章1−11節
あなたを腹立たせているのは、いったい、何でしょうか?死んだ方がましだと思わせるほどに、あなたを腹立たせることがあるとすれば、それは何でしょうか?そして、『死んだ方がましだ』とあなたが思うほどに、その問題は大切なことなのでしょうか?私たちの怒りは、多くの場合、私たちの心の中にある優先順位と関心事を映し出す外見上の写真です。ヨナ書4章は、私たち の心の優先順位と愛をどこにおくべきかということを教える非常に大切な個所です。ヨナは、ここで、何が本当に大切で、重要であるのかということについて神さまから教えられます。今日の聖書のみことばを通して、神さまはヨナに3つの問いかけをしています。まず、「あなたは、わたしに腹を立てる権利を持っていますか?」(4:1~4)と尋ねています。そして、「あなたは、わ たしの『とうごま』のために腹を立てる権利があるというのですか?」(4:5~9)と続きます。そして最後に、「ヨナよ、あなたは、このわたしがあわ れみ深い神ではないとでも思っているのか?」(4:10~11)という問いかけを投げかけているのです。もちろん、神さまは、これらの問いかけの答えをご存知の上で、ヨナに尋ねておられます。神さまはヨナの心を調べたかったのです。神さまからの問いかけに対するヨナからの答えによって、ヨナの心が神さまのみこころに正しくつながっているかどうかということを見分けることができます。ヨナには、神さまのみこころを知ろうとすることが必要であったことを教えるため、神さまは根気強く、そして、愛情深く実際の歩みの中で語りかけられたのです。 同じく私たちが神さまのみこころをより深く知ることができますように祈りましょう。
「ヨルダン川を渡る」 ヨシュア記3章7-17節
本文でのイスラエルの民は40年間の荒野での生活を終えて、乳と蜜の流れるカナンの直ぐ前まで来ていました。ところが、彼らの目の前にあったのはヨルダン川でした。このヨルダン川を渡れば、イスラエルの民は願っていたカナンの地に入ることが出来ます。しかし、彼らの前に置かれていたヨルダン川を渡ることが簡単なことではありませんでした。この時期は刈り入れの間中であってヨルダン川は岸いっぱいにあふれる状況でした(3章15節)。このようなヨルダン川を渡らないと、カナンの地に入ることはできません。神様が約束してくださった地に入るためにはこのヨルダン川を渡らなければならない、しかし渡ることは非常に怖い状況でした。
その時に神様は、イスラエルの民に「主の契約の箱を見、そのうしろを進まなければならない。」(3章3節)と語ってくださいます。この契約の箱にはモーセが神様から頂いた十戒の板が入ってありました。そしてそれは神様の御臨在を現わすものでありました。荒野でもこの契約の箱に従って移動したイスラエルでした。今、この時も他ではなく契約の箱を良く見てその後ろについて進みなさいと語ってくださるのです。そして二つ目に「あなたがたの身をきよめなさい」と命じられます(3章5節)。川を渡るためには色々な準備をし、最適な場所をも見つけなければなりません。しかし、神様はそのようなことより、先ずご自分との関係を覚えてきよくしなさい、と命じられます。それはヨルダン川を渡ることが出来ると言うことが、神様の力と恵みよることであるということを教えてくださることです。最後の見つめに神様は契約を箱をかついでヨルダン川の中に入りなさい、と命じられます(13節)。そうする時、ヨルダン川は止まり、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることができると語られます。
私たちの信仰の道にもヨルダン川があり、私たちはそれを渡らなければなりません。その時に、私たちに語ってくださったみ言葉を覚えて、その教えに従って行く者になりたいと思います。信仰の一歩を踏み出すことが出来るようになりたいと思います。