「生き返った恵み」 ルカの福音書15章11〜24節
本日の本分は教会は勿論、多くの人々に「放蕩息子」というタイトルでよく知られているたとえ話です。ルカの福音書には三つのたとえ話が書いてありますが、そのどれも同じ教えであって「失われたものを見つかった時の持ち主の喜びが強調されています。本文のたとえ話も同じように家を出た弟息子が帰ってきたことを大変喜ぶお父さんの姿をよく見ることができます。
そのようなたとえ話の中で弟息子は何をどうしたでしょうか。彼はお父さんに、財産の分け前をください、と大変なことを求めました。人倫にはずれたことであるし、息子からそのような話を聞く親の心は氷のように凍ってしまう話しだと思います。ところが、その話しを聞いたお父さんは財産を分けて兄と弟に分けてやりました。そしてそれをもらった弟は、何日もたたないうちに、自分のものを何もかもまとめて家を出て行ったのです。そして遠い国、即ちお父さんに干渉されないところに行って、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまったのです。しかし、そのような生活は長続きできず、彼は何もかも使い果たしてしまいました。さらにその国に大きなききんが起こり、彼は食べるものさえない、大変な状況になりました。そんな彼を助けてくれる人は一人もなく、お腹が空いて豚の餌であるいなご豆でも食べたいと思いましたが、それさえ与えてくれる人がなかったのです。
そういう悲惨な状況にあった時、彼は我に返ってお父さんのところの豊かさを思い出しました。そしてお父さんのところに帰って、神様に対してお父さんに対して罪を告白しようと思ったのです。その後、彼はお父さんのところに帰ってその通りにやりましたが、その帰ってきた息子を見つけたお父さんは彼を大変ん喜び、彼を迎え入れてくださったのです。私たちの父なる神様のそばにいることの喜びを覚えたいと思います。私たちがいるべきところは、自分勝手な道ではなく父なる神様のそばである、そこに真の豊かさと喜びがあると言うことを覚えたいと思います。
「サウロの回心」 使徒の働き9章1〜9節
本日の本文は、使徒パウロの回心の出来事です。このパウロの回心はキリスト教においてとても大きな影響になった出来事です。パウロは新約聖書の27の書の中で13の書を書きまして、その中には神学的に、そして教理的に非常に重要な教えが多くあります。聖書だけではなく、世界宣教においてもパウロの役割と活動は非常に大きなものであります。そういうパウロですが、彼の回心前はどうたったでしょうか。本文の1節、2節によりますと、サウロは「なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」いて、「この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」とエルサレムから遠く腫れているダマスコまで行くほど情熱的でした。
ところがそのようなサウロでしたが、神様はそのサウロをそのままに置かなかったのです。クリスチャン捕まえるために向かったダマスコの途上に、サウロは驚く経験をするようになります。それは、突然、天からの光に照らされ「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞くことでした。驚いたサウロはその場で倒れ、「主よ。あなたはどなたですか。」と聞きますと、その声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えたことでした。このような経験をしたサウロは大きな衝撃を受けたと思います。目が見えなくなったサウロは人々の手に引かれてダマスコに入り、三日間、何も見えず、食べることも飲むこともしなかったのです。
この三日間、サウロは何をしたでしょうか。何も見えなかったサウロは、飲み食いもしないで、自分に起こった出来事についてゆっくり考えてみたと思います。そしてその中で、自分の今まで考えていたことが間違ったことがわかり、イエスがキリストであることを信じるようになったのです。神様はこのようにして、大迫害者サウロを回心させてくださり、そしてあの偉大な伝道者にしてくださいました。この神様の不思議な力を覚えて、私たちに与えられた救いを感謝し、宣べ伝えるものになりたいと思います。
「見つけられる恵み」 ルカの福音書15章1〜10節
本日の本文にはなくしたものを見つけた時の持ち主の喜びについてのたとえ話が書いてあります。このルカの福音書15章には三つのたとえ話がありますが、4〜7節は「いなくなった一匹の羊」、8〜10節は「なくした銀貨一枚」そして11節以降には有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。このような三つのたとえ話の共通点は、何かをなくしたということです。羊飼いは一匹の羊を、女性は銀貨一枚を、お父さんは愛する息子をなくします。しかし、そのなくしたことで終わってしまうことではなく、そのなくしたものを再び見つけてもとのところに帰ってきます。そのようなたとえ話の中で強調されていることは、なくしたものを必死に捜す持ち主の姿、そしてそれを見つけるためにどれほど努力するのか、また見つけた時の喜びがどれほど大きなものなのか、ということです。
その一つ目は4〜7節では、ここにはいなくなった一匹の羊のたとえ話が書いてあります。非常に有名な内容ですが、ここで描かれていることは、いなくなった一匹の羊を捜すために歩き回る羊飼いと、その一匹の羊を見つけた時に大喜びで帰ってくる羊飼いです。少し離れたところやそこら辺を捜してみていなければ言えて帰ってしますことではなく、必死に見つけるまで捜し、見つけた時には大きく喜ぶ羊飼いです。そして8〜9節ではなくした銀貨一枚を捜す女性の話しです。ここにおいてもその女性は「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜す」のでした。また、銀貨一枚なのですが、それが見つかった時、羊飼いを同じように大きく喜ぶ姿が書いてあります。
このようなたとえ話を通して私たちはまず、私たちを見つけてくださる神さまを覚えることができます。羊のようであって、いつもさまよい、自分勝手に行ってします私たちを神様は見つけてくださるのです。そしてそんな私たちさえも喜んでくださる神さまです。私たちはこのような神様のことを覚えて力と励ましを頂きたいと思います。
「罪を見過ごしてくださる神」 Ⅱサムエル記12章7−13節
本日の本文はあの偉大なダビデが、あの信仰深いダビデが罪を犯してしまった、ということがナタンによって暴露される内容です。その罪というのは、本文のすぐ前の11章に書いてあるダビデの姦淫と殺人の罪です。ある日、王宮の屋上を歩いていたダビデは、一人の女性が体を洗っているのを見ました。彼女について調べたら、自分の部下ウリヤの妻であることが分かりましたが、ダビデは彼女を自分のとろこに呼び、姦淫の罪を犯します。その後、彼女がみごもったことを知り、それを隠すためにウリヤを家に帰らせますがダビデの思う通りに行かず失敗してしまいます。結局、ダビデはウリヤを最も激しい戦場に送り、ウリヤが死ぬようにしました。その後、ウリヤの妻、バテシェバを迎え入れ、ダビデの姦淫と殺人の罪はそのまま隠されるようです。
しかし、そのすべてを神様はご覧になっておられ、ダビデのところにナタンを遣わし、その罪を指摘します。ナタンは一つのたとえ話を通してダビデの罪が死刑になる程、深刻なことだということをダビデに告げます。そしてダビデの罪がどんことなのか、詳しく説明しますが、それは「あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。」ということでした。そこまでダビデは自己弁明をしていたかもしれません。自分の罪の責任を他の人のせいにして、自分は悪くないのだ、と思っていたかもしれません。しかし、そのダビデに神様がダビデの罪を指摘し、罪を教えてくださったのです。
その話を聞いたダビデはすぐに「私は主に対して罪を犯した。」と自分の罪を認め告白しました。そしてそのようなダビデに対して神様は「あなたの罪を見過ごしてくださった。」と赦しを与えてくださったのです。神様がダビデの罪を指摘し、罪を悟るようにしてくださった理由は他ではなく、その罪を赦してくださるためでした。私たちが何か罪を犯してしまった時、それを知りましたら、このような赦しの神様のことを覚えて悔い改めましょう。私たちの罪を赦してくださる神様、その神様が喜ばれる道を歩んでいく者になりたいと思います。
「辱められることの恵み」 使徒の働き5章33〜42節
本日の本文には、福音を伝えたことによって殺される危機に置かれた使徒たちの姿が出てきます。使徒たちは、ペンテコステの出来事の後、宮でイエス様がキリストであることを教え、病人を癒したり悪霊を追い払ったりしました。それに対するサンヘドリン議会の対応は、最初は軽い方でしたが、それも段々大変なものになりました。そんな中で、本日の本文は使徒たちが議会において尋問される場面ですが、使徒たちの答弁を聞いていた議会は、怒り狂って使徒たちを殺そうとまで思ったのです。
その時、議会の中にいたガマリエルという人物が立ち、使徒たちを外に出させて議会の方にゆっくり考えてみた方が良いのではないか、という提案をしました。ガマリエルは、すべての人に尊敬されている律法学者でパリサイ人でした(34節)。彼は昔のパウロの先生でもありまして、当時イスラエルの中で最も尊敬される人物でした。そのようなガマリエルはチェダとガリラヤ人のユダという過去の二人の実例を取り上げて使徒たちのことから手を引き、放っておきなさい、ということを提案します。彼の意見は、もし、今の騒ぎが人からのものだったら自滅してしまい、神様からのものだったら彼らを滅ぼすことはできない、と話します。
このようなガマリエル提案は正しいこととは思えないことですが、神様はそれを用いてくださり、議会から使徒たちが釈放されるようにしてくださいます。その釈放される際に、使徒たちはムチで打たれ、イエスの名によって語ってはならない、と言われます。しかし使徒たちはそんな大変なことをも喜びならが帰り、再び、毎日、イエス様がキリストであることを宣べ伝え続けました。福音を伝えること、聖書の教えや十字架の出来事を他の人々に伝えることは大変難しいことです。それを伝えた時、変えて来る反応が冷たいことでしたら、その後はもっと伝えづらくなります。しかし、福音を伝えることは私たちに与えられた恵みです。たとえ、辱められることがあるとしても助けてくださる神様のことを覚えて、福音を語り続ける者になりたいと思います。
「助けてくださる神様」 使徒の働き5章17-32節
イエス様が天に上られた後、一か所に集まっていた弟子たちは聖霊に満たされる不思議な経験をします。そしてその後、聖霊の力によって多くの弟子たちは人々に福音を伝え、色々な奇跡を行ないます。ペテロの説教によってある時は三千人の人々が、ある時は五千人の人々が悔い改め、洗礼を受け、教会に加わります。また、使徒たちはイエス・キリストの名によって病人を癒したりしますが、そのような彼らの噂は広く広がり始めました。当時、多くの人々は彼らを尊敬していました(使徒5:13)。そしてその時の姿をルカは「エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた」と説明しています(使徒5:16)。
そんな中で使徒たちの姿を喜ばない人々がいました。本文の17節に「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり」とありますが、等々、使徒たちを捕らえ、留置場に入れてしまいました。今までエルサレムのクリスチャンは多くの人々からは尊敬され、色々な奇跡を行ない、益々増え続けて来ました。しかし、大祭司とその仲間たちによって使徒たちが牢屋に入れられたという大変な状況に置かれるようになったのです。
その時、神様は神の民を不思議な方法で助け守り、導いて下さいます。先ず、神様は不思議な方法で使徒たちを牢屋から連れ出してくださいました。留置場には門の前に番人がいましたが、彼らが知らない内に主の使いによって外に連れ出されました。また、神様は彼らに聖霊を与えてくださり、使徒たちを助け導いてくださいます。使徒たちは再び大祭司たちの前に連れて来られますが、その時、彼らに対して「人に従うより、神に従うべきです。」と答え、大胆に福音を伝えました。このような姿は聖霊が助けて下さっているからです。神様はご自分に従おうとする人々をある時は不思議な力で助けて下さり、聖霊を通して守り導いて下さいます。私たちもどんな状況の中でも、そのような神様を信じ、神様に従う道を選んで歩んで行く者になりたいと思います。
「キリストについて行く」 ルカの福音書14章28-35節
本日の本文は、前回のる会の福音書14章25節以降で教えられたイエス様の弟子になることへの教えの続きです。14章26節では自分の家族と自分のいのちまでも憎まない者は、イエス様の弟子になることが出来ないということが、そして27節では自分の十字架を負って付いて来ない者も、やはりイエス様の弟子になることが出来ない、と言うことが言われました。28節以降はその三つ目になりますが、そこにおいてイエス様は例え話しをしてくださってイエス様の弟子になることについて教えてくださいます。
先ず、イエス様は塔を築こうとする時の話してしてくださいます。その話しではある事を始める時は、始める前に費用などを十分に考えた上で始めるということです。そうしないで何も考えずに始めたら途中でやめざるを得なくなり、それでは周りから笑われる者になるしかない、ということです。そして二つ目の例え話しは、戦いを交えようとする時の話しです。その時に敵の力、兵士の数などを十分に考えて勝ち目があるかどうかを決めるべきだ、ということです。この二つの例え話しの中で共通に強調されていることは「まずすわって、十分に考える」ということです。ですから、イエス様の弟子になる者は、弟子になることを十分に考えなければならないということです。その道がどれほど大変なのか、どれほど大きな犠牲を払わなければならないのか、そして弟子になる者はいつも悪魔から攻められることになることをも十分に考えてイエス様について行かなければならないということです。そのことをよく考えて、そしてどんな場合においても、何よりも誰よりもイエス様を愛する者、イエス様を第一に大事に思う者になれば、その人は塩気を保ち、良い塩として用いられるようになります。
私たちはイエス様の弟子としてクリスチャンとして、イエス様について行かなければなりません。その時、先に歩まれたイエス様のお姿を覚えて、そのお方に学んで、その足跡をついて歩んで行く者になりたいと思います。
「神のみこころより離れないように」 士師記18章7-13節
本日の本文は、イスラエルの12部族の中でダン部族の内容です。7節の初めに「五人の者は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見る」とありますが、これはダン部族から5名の斥候を送ったことです。18章1節に「ダン人の部族は、自分たちの住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかったからである。」という理由からのことでした。しかし、ヨシュア記19章41節以降によりますと、ダン部族にも同じく割り当てられます。ところが、ダン部族はその地を自分たちのものにすることが出来ず、神様によっての割り当て地ではなく、新しい土地を探そうとして5名の斥候を送ったことでありました。
そしてその5人の人々はエフライムの山地にあるミカの家で若いレビ人に出会うようになります。彼がミカによって雇われてミカの家で祭司になったことを知った彼らは、彼に「どうぞ、神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」と頼みました。そしてその若いレビ人は「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主が認めておられます。」と答えます。それを聞いた5名の斥候は、ガリラヤの北側にある「ライシュ」という町に付き、その町を探っていたことでした。その後、彼らは自分たちの家に帰り、ダン部族の人々に「ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。」と、そして「神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。」とも報告し、ライシュに攻め上ることを強く主張します。そのような彼らの心には、神様のみこころは何か、神様が良しとされることは何か、という思いはありませんでした。ただ、自分たちのしたいままに、自分たちが願うままに行なって行くだけなのです。しかし、私たちがすべきことは神様のみこころに従うことです。どんなに大変なことがあるとしても、神の子らしく、神様が教えて下さるままに、導いて下さるままに従って歩んで行く者になりたいと思います。
「愛に取り囲まれる」 Ⅰコリント人への手紙 5章13-15節
本日の本文はパウロがコリント教会に書いた手紙です。聖書の中でパウロの最初の姿はクリスチャンを迫害し、キリストを迫害することでした。そのようなパウロは、クリスチャンを捕まえるためにダマスコに行く途中でイエス様に出会い、今までの人生とは180度変わった人生を歩むようになりました。キリストを迫害する者から、キリストの使徒として世界中に福音をのべ伝える働きをするようになったのです。そのようなパウロの人生は、決して平坦の道のようなものではありませんでした。異邦人の使徒として福音を伝えることを一所懸命にやればやるほど、もっと大きな苦難があったのです。福音を伝えることによって同じユダヤ人から非難され、迫害を受け、時には命までも危険になることもありました。
本日の本文においても自分を非難する人々に対してパウロは「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」と答えています。周りから迫って来る非難や大きな迫害の中にあったパウロ、しかし彼の心はキリストへの情熱に満ち溢れていました。そのような情熱をもって、いつも神様の御前においては謙遜であって、その働きに良い手は神様からの力によって自分に与えられた働きをやり続けて来たのです。
それでは、苦難の中でもキリストへの情熱を持たせたのは何でしょうか。それは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と、答えています。そしてそのキリストの愛について14節と15節で説明していますが、それはキリストの低くなった謙遜のお姿と自分の全てをささげた犠牲の愛でした。御子キリストであられるお方が、私たちへの愛のゆえに人となってこの地に来られました。そして苦しみを受けられ、十字架につけられて、罪人の救いのために死なれたのです。そういうキリストの愛を頂いている私たち、そのキリストの愛に取り囲まれている私たちは、その愛によってどんなことをも耐え忍び、乗り越えることが出来るのです。
「イエス様について行く」 ルカの福音書14章25-35節
この時もイエス様の周りにも大勢の人々が集まり、イエス様について行っていました。そういう大勢の人々のほうに向いて、イエス様はご自分の弟子になるためには、こうでなければならないことについて話してくださいます。本文の中には三つのことが教えられていますが、本日はその中で二つのことについて考えて見たいと思います。
一つ目にイエス様は、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません、と語れます。この時の「憎む」ということばは「より少なく愛する」という意味です。同じことを教えますマタイの福音書10章37節には「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と書いてあります。即ち「自分の家族を憎まない者」とは「イエス様より家族を愛する者」となります。ここでイエス様は教えてくださることは、家族より、さらには自分の命よりもイエス様を愛する者でなければイエス様の弟子になることはできないということです。ですから、イエス様について行く者は、何よりも、誰よりもイエス様を愛する者でなければならないのです。
二つ目にイエス様は自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、イエス様の弟子になることはできないと仰います。そして自分の十字架を負う、ということはイエス様が苦しみの道を、辱しめの道を歩んで行かれましたように、その人もイエス様について行くゆえに苦しみを受けるということです。イエス様について行くゆえに辱しめを受けるということです。神様に招かれて信仰が与えられ、イエス様が歩んで行かれた道を歩む時、そこには家族から、友人から、周りの人々から反対されることも苦しみを受けることもあると思います。そういう時に、イエス様について行く者は、そのような自分の十字架を負いつつ、イエス様に行かなければなりません。
誰よりもイエス様を第一に愛し、どんな苦しみがあるとしても最後の最後までイエス様について行く者になりたいと思います。