礼拝メッセージ要旨

1月31日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「子どものように」           マタイの福音書18章1-9節
 本日の本文で、弟子たちは「自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論」をしていました。少し前にイエス様は弟子たちに「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と、ご自分の受難について仰いました。ところが、本日の箇所を見ますと、弟子たちはそのようなこと、即ちイエス様が人々の手に渡されて苦しみを受けるという事には全く関心がなく「自分たちの中で、だれが一番偉いか」という議論に余念がありませんでした。この時、弟子たちはこれから何か期待できるようなことを起こり、その時に自分たちの中で誰が一番偉い者になれるのかということしか考えていなかったのです。特に、変貌の山にイエス様と共に登ったのは3人でした。他の9人は山の下で待っていましたが、そんなこともあって弟子たちの間では、だれが一番偉いかということが大きな議論になっていたのです。その時、イエス様は弟子たちの心の中の考えを知っておられて本文の4節のように「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と仰って下さいました。 それではイエス様が教えて下さった一番偉い者はどんな人でしょうか。それは5節に書いてありますように、子どもをイエス様の名のゆえに受け入れる者、すなわち自分を子どもと等しく思う者です。ここで子どもとは、力などとは期待できず、弱くて世話をしなければならない存在です。そういう存在をもイエス様のように受け入れて仕える者、そのような者が一番偉い者だということになります。自分のことだけを思い、誰が一番偉いのかということばかりを思っている者には、子どものような存在は目に入りません。しかしそのような心がキリストの愛によって満ち、キリストだけを喜ぶことになりますと、自分への思いは無くなります。そのキリストへの喜びが心いっぱいになった時、キリストのゆえに子どもにも仕えることが出来るようになると思います。その愛によって私たちの心が満ち溢れ、キリストだけを喜ぶ者になりたいと思います。そして周りの人々に仕える者となりたいと思います。



12月3日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「キリストに聞き従う」             マタイの福音書17章1‐8節
 本日の本文はイエス様の御姿が変わったことから「変貌の山」などと言われている内容です。本文によりますと、高い山に登られたイエス様は、そのお姿が太陽の光り輝くように変わりました。そして驚くことはそれだけではありませんでした。光り輝くお姿に変わったイエス様のそばに、モーセとエリヤが現れて、イエス様とモーセ、エリヤの3人で語り合っておられたのです。そしてその語り合っておられた内容とは、エルサレムでのキリストの十字架での死とその後の復活のことについてでした。
 このような光景を目の前にしていた3名の弟子たちがいました。それはペテロとヨハネ、ヤコブであって、彼らは以前にも3名だけが選ばれてイエス様が行なわれる不思議なみわざを見たことがありました。この時も、イエス様はこの3名の弟子を選ばれて栄光に輝くご自分の御姿とモーセとエリヤの会話の内容から、これから起こることについて教えて下さろうとしたのだと思います。しかし、弟子たちはイエス様の教えより自分の思いに従うことでした。太陽のように光り輝くイエス様のお姿とモーセとエリヤの姿は見ましたが、その中で話されていたことについては気づくことが出来ませんでした。イエス様はモーセとエリヤとともにこれからの十字架の苦しみについて語り合っておられたのに、弟子たちはただ今の状態が素晴らしいと思い、そのままの状態に留まっていたいと思っていました。そう思っていたペテロは「幕屋を造りたい」とイエス様に言いました。ペテロがそう言っている時に光り輝く雲が覆って、まるでペテロの言葉を遮るかのように、その雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言う事を聞け。」という神のみ声が聞こえて来たのです。
 この時、弟子たちが考えていた栄光とはこの世での支配や力のようなものでした。しかしイエス様とモーセとエリヤが語り合っていたのは十字架の道でした。それを知らなかった弟子たちに神様は「彼の言う事を聞きなさい。」語って下さったのです。自分の思いを捨てて、ただ、イエス様の教えに聞く者になりたいと思います。

8月20日(日)礼拝メッセージ要旨 フランク・ハレル宣教師

 

「天の御国の価値観:恵み」         マタイの福音書20章1〜16節

マタイ19〜20章では、イエスはエルサレムと十字架に向かっておられます。その間、イエスは弟子に自分の価値観について考えさせます。弟子はお金や力を持っている者が大切だと思っていますが、それに対して、イエスは天の御国は子どものような者のものだと主張され、先にいる者は後になり、後にいる者は先になると教えられます。
マタイ20:1〜16のたとえ話によって、天の御国の価値観を示されます。天の御国で重要なのは、私たちの行いではなく、神様の恵みです。イエスはこのたとえ話を通して人間の心ついて教えられます。人間の価値観とは、行いによって神に受け入れられるということです。しかし、イエスは神がご自分の恵みによって私たちを救ってくださると教えられます。
たとえ話では、イエスは天の御国は家の主人のようなものだと言われます。不思議ですが、主人は5回市場に出かけ、五つのグループの労働者を雇います。一つ目のグループは朝6時に雇われ、一日中働きます。最後、主人はまた昼5時に出かけ、誰も雇わかったグループも雇ってくださいます。これは主人が自分の必要のためではなく、労働者の必要のために出かけ、彼らを雇うことを示します。仕事が終わると、主人の決まりで労働者はみんな1デナリを受けます。一つ目のグループはこれについて文句を言い、それに対して、主人は働けた分によるのではなく、最後のものに同じ分を与えたいと説明します。これは神の罪深い人間に対する心を示します。
神の御前に、人間はみんな罪人で、さばきに値します。しかし、恵み深い神は、罪深い人間を愛してくださいます。その恵みは、神の御子イエス・キリストの私たちの身代わりとしての十字架上の死によるのです。人間はキリストにある恵みによってのみ神と和解させられます。全ては恵みによるので、先も後もありませんし、クリスチャンは神の恵みを妬まず、自分と他人に他する恵みをほめたたえることができます。さらに救いは行いによるのではなく、恵みによるので、信じるものはみんな神に愛されている確信を持つことができます。

8月13日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「わたしに持って来なさい」         マタイの福音書14章13〜21節
イエス様の行われた奇跡の中で最も良く知られている出来事な何でしょうか。それは「五千人の給食」であると思います。この内容は、幼い時から教会学校に通った方々には、その昔からよくなじんでいる内容でもあると思います。また、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四つの福音書の全てに記されている唯一の奇跡でもあります。
今日の本文の13節14節を見ますと、イエス様は船に乗り寂しいところに行かれました。その姿を見た群衆は、イエス様が着くであろうと思われるところに先に行って、そこでイエス様を待っていました、そのため、イエス様が着いた時には既に大勢の人々が集まっていまして、その中には病人もいました。その大勢の人々を深く憐れまれたイエス様は彼らを癒されました。
そんな中で夕方になって、弟子たちは大勢の人々がこのままでいることを心配になりました。それでイエス様に「ここは 人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って 自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」と話しました。21節には「男だけで5千人」と書いてありますので、女性や子どもも入れれば一万人以上の人々は集まっていたのです。そのような大勢の人々は、周りに何もないところでこのまま日が沈んでしまうと大変になります。ですから弟子たちはイエス様に「群衆を解散させてください。」と話したのです。
それを聞かれたイエス様は弟子たちに「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と話されました。しかし、弟子たちはこのように大勢の人々を食べさせる物は持っていなくて「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」と答えました。するとイエス様は「それを、ここに持って来なさい」と言われ、それを取って天を見上げて 神をほめたたえてから、弟子たちに与えられました。弟子たちはそれを群衆に配りましたが、大勢の人々は満腹になり残ったパンきれは十二かごにいっぱいだったのです。
この時、弟子たちの手には五つのパンと二匹の魚しかなくて、男だけで五千人という大勢の人々、それは十分なお金があるとしても満腹に食べさせることができません。その僅かなものもイエス様は「わたしに持って来なさい」と言われ、それがイエス様の手に持たれた時には、大勢の人々も満腹になるまで食べられる奇跡が起こりました。
私たちにはできないと思うことも、イエス様は「わたしに持って来なさい」と言われます。そのイエス様の御声に疑わずに従った時、イエス様はそのわずかなものを通して大変素晴らしい奇跡を行なってくださいます。私たちが持っている物はわずかで小さくてこれでは何も出来ないと思うかも知れません。しかしそれがイエス様によって用いられる時には素晴らしい奇跡になります。「わたしに持って来なさい」という御声に従ってイエス様に渡し、豊かに満たしてくださる恵みの中で歩んでいく者になりたいと思います。

7月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「取り去られない恵み」             Ⅱサムエル記7章1〜17節
本日の本文でダビデは、神様のために神様の家を建てたいと願います。その切っ掛けは「この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」と言うことからでした。ダビデの家、即ち王宮はとても立派なものでした。Ⅱサムエル記5章11節によりますと、シロの王ヒラムが杉材と大工と石工を送り建てたものでした。当時のイスラエルにおいても見たことのない、とても立派な建物が建てられたことだと思います。その反面、神の箱は天幕に置かれたままでした。それも長い間、ずっとその状態でした。ダビデはイスラエルの全体の王となり「主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。」とある程度安定した時に、その状況に気づき、新しく神の家を建てたい、と思ったことでしょう。
それに対して預言者ナタンも賛成するものでしたが、4節以降の内容を見ますと、ダビデの願いは神様のみこころではなかったことが明らかになります。神様はイスラエルの民にしても、ダビデにしても一度も杉材で建てた立派な神殿を求められたことはありませんでした。神様は家に住んでおられるお方ではなく、いつもイスラエルの民と共におられるからです。
ダビデの願い、それは決して悪いことではありません。安息と平安が与えられたその時に、神様のために何かをやりたいと言う思いだけでもとても素晴らしいと思います。しかし、それが神様のみこころであるとは分からないことです。そして本日の本文ではみこころではなかったのです。
そして神様は、神様がダビデのために一つの約束を与えてくださいます。それが本文の11節以降のダビデ契約です。そこで神様はダビデに「主があなたのために一つの家を造る」そして「彼が不義を行ったとき」も「わたしの恵みは、彼から取り去られることはない。」と約束してくださいます。そしてこの約束は直接的にはソロモンを通して、そして究極的には救い主イエス・キリストを通して成就されました。ダビデ契約に現れている大切なメッセージ、それは神様は恵みを持って導いてくださる、と言うことです。ご自分のご計画の中で恵みを持って神様の民を守り導いてくださる、と言うことです。その恵みはどのような状況の中でも決して取り去られないものです。この永遠に変わらない神様の約束を覚えたいと思います。恵みを持って約束を果たしてくださる神様に信頼して、どんな苦しみの中でも神様を仰ぎ見て歩んで行く者になりたいと思います。

7月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ヨハネの最後」           マタイの福音書14章1〜12節
バプテスマのヨハネはマタイの福音書11章で出て来ました。その時、ヨハネは牢屋の中にいまして、弟子たちをイエス様のところに送って質問をしました。その後、ヨハネはどのようになったか、が今日の本文に記されています。
1節に「ヘロデ」が出て来ますが、ヘロデはイエス様の噂を聞いて自分が殺してヨハネが死人の中からよみがえったのだ、と言っています。ですからヨハネがすでに殺されまして、ヘロデはその時のことを思い出して話しているのでした。
本文に出てくるヘロデは「ヘロデ大王」の息子です。そしてヘロディアは、ヘロデの異母兄弟のピリポの妻でありました。ところが、異母兄弟の妻を自分の妻にしたのです。そのため、元の妻とは離婚をもしたのです。それについてヨハネは「律法にかなっていない」とヘロデの罪を指摘し、言い続けていたのです。5節を見ますと、ヘロデはそのようなヨハネのことを殺したいを思っていましたが、民衆を恐れて殺すことはできず、ヨハネを捕らえて牢屋に閉じ込めていたのです。
そんな中でヘロデの誕生祝いの時のことでした。ヘロディアの娘が皆の前で踊ってヘロデを喜ばせました。それでヘロデは、ヘロディアの娘に「求める物は何でも与える」と誓って約束をしました。そして娘は、母のヘロディアに相談をしましたら「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」」と言わせました。それを聞いたヘロデは心を痛めながらも、皆の前で約束したため、その通りにヨハネの斬首を命令したのです。このようにしてバプテスマのヨハネは死にました。
ヨハネの働きはキリストの道を準備することでした。イエス様の宣教の初めの時、ヨハネはイエス様のことを多くの人々を紹介し説明しました。そして最後には自分の死を持って、イエス様の十字架での死を予め示したのです。本文の内容のような死に方、空しく思われるかも知れません。しかし、死で全てが終わる、ということではないことを覚えたいと思います。イエス様が十字架で死んで、その後よみがえりました。十字架での死と復活を通して永遠の命を勝ち取ってくださったのです。そしてその永遠の命は、ヨハネにも、信じる私たちにも与えられているのです。ですから、たとえ苦しみがあっても永遠の命への希望を喜びを持って救い主であるイエス・キリストに信頼し従って歩んで行きたいと思います。

7月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「尊敬されないイエス様」          マタイの福音書13章53〜58節
マタイの福音書13章には、多くのたとえがあります。それらのたとえ話しを話し終えられたイエス様はご自分の郷里、ナザレに行かれました。そしてナザレの会堂で人々を教え始められました(53、54節)。今までイエス様はガリラヤの色々な地域を歩き回り、多くの奇跡を行われました。病人を癒してくださり、死んだ者を生き返らせたことをありました。そのようなイエス様の奇跡を行われた噂は、イエス様の郷里であるナザレまでも広がり、ナザレの人々もそれを聞いて知っていたと思います。
教え始められたイエス様、するとナザレの人々は驚いた(54節)、と書いてあります。噂だけを聞いていたナザレの人々は、イエス様からの素晴らしい教えを聞いて非常に驚いたのです。そして彼らは「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力を どこから得たのだろう。」と言います。イエス様が教えだけではなく、力ある奇跡も行われたようです。知へに満ちた教えを聞き、素晴らしい力ある奇跡を行われることをみたナザレの人々は、今まで噂で聞いていたイエス様に関することが事実であることを知りました。
それを知った人々の反応とは、私たちがよく知っているマリヤの息子であるイエスではないか、そのイエスがこれらのものをみな、どこから得たのだろうか、ということでした。昔から知っていたあの人が、一体どこからこの素晴らしい力を得たのか、と不思議がっていたのです。確かにイエス様はナザレで30歳頃まで生活していました、町の人々はイエス様の幼い頃から見ていたと思います。イエス様の母はマリヤであり、4人の弟と妹たちがいることまでよく知っていることでした。しかし、そのようなことを良くしていたとして、本当にイエス様を分かっていることでしょうか。ナザレの人々はマリヤの息子であるイエスは良く知っていましたが、キリストであるイエス様は全く分からなかったのです。イエス様を人間として思い、キリストであるはずがない、と思ったことです。神であられるお方が自分たちのところに来られまして、共におられたということは夢にも思わなかったことです。
このようなナザレの人々の姿は、今まで13章で見て見たたとえの内容の実例になります。種蒔きのたとえ、お宝と真珠のたとえなど、福音を聞いても受け入れない、見ても見ることができない人々なのです。そして本来は私たちもナザレの人々と同じでした。福音を聞いても受け入れない、お宝としての価値を分からない人々でした。しかしそのような私たちに神様は恵みを与えて下さいました。福音を受け入れることができる恵み、福音の価値が分かる恵みを与えてくださったのです。イエス様を救い主として信じる信仰を与えてくださったのです。この恵みに感謝し、救いの喜びを多くの方々に証しして歩んで行きたいと思います。

7月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主を恐れ敬う」              Ⅱサムエル記 6章1〜11節
ダビデはついにイスラエル全体の王となりました。イスラエルは7年6ヶ月の間、南のユダ部族と北の11部族に分かれていまして、その間戦いもありました。ダビデがイスラエル全体の王になることによって統一したのですが、内部的には、まだ一つとなれなかったところもあったと思います。そのため、ダビデはエルサレムを攻め取ってイスラエル全体の中心となる首都とし、イスラエルが一つとなることを願いました。そして今日の本文では神の箱をエルサレムに運び入れますが、それを通して信仰においても一つとなり、ダビデの統治理念をみことばに置き、国全体がみことばに従うことで一つとなる、そのような国を立てていこうとした、と思われます。
2節を見ますとダビデはユダのバアラ(キルヤテ・エアリム、Ⅰサムエル記7:1)に行き、神の箱を新しい荷車に乗せました。そしてウザとアフヨが荷車を御した、と書いてあります。長い間、神の箱はユダのバアラ(キルヤテ・エアリム)に置かれていましたが、エルサレムに運び出すということでダビデもイスラエルの民の非常に喜ぶことでした(5節)。
ところが、その喜びは悲劇に変わりました。荷車を御していたウザが神の箱を掴んでしまい、それによってウザはその場で死んでしまったのです。この時、牛がよろめいたため、神の箱はひっくり返りそうになったので、ウザは神の箱が落ちることを防ぐために掴んだのです。しかし、そのようなウザについて、7節を見ますと「過ち(不敬の罪、第3版)」と書いてあります。
律法の規定によりますと、本来神の箱は触れてはならない、見てはならないものでした。ウザは神の箱が荷車から落ちることを守るために掴んだのですが、しかしそれは神様からの律法を破ったことになります。善意を持ってやったとしても触れてはならないと命じられたものを触れてしまったことになります。そのウザの行為は不敬の罪だったのです。
私たちは神様を恐れ敬い、そのみ教えを正しく心から守っているでしょうか。私たちはウザのようであって、守るところか破っています。それでもこのように神様の子とされたことは全てイエス・キリストのゆえです。私たちの全ての罪を背負って十字架につけられ、全ての罪を贖って下さった恵みのよって、私たちの全ての罪は赦され、神様の子とされたのです。この恵を心から感謝し、喜びを持って神様のみことばに従って歩んで行きたいと思います。

5月21日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「天の故郷」             ヘブル人への手紙 11章13〜16節
本日の本文には天の故郷に憧れていた人たちのことが書いてあります。そして彼らは信仰者として、この世で自分たちが帰るべき天の故郷を覚えて生きて行ったことを教えています。本文のみことばを通して天の故郷に憧れて生きて行った信仰者たちについて共に考えて見たいと思います。
まず、13節の最初を見ますと「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。」と書いてあります。「これらの人たち」とは、具体的には8節以降から出て来るアブラハムとイサクとヤコブのことです。そしてより広い意味では信仰の先陣たちのことです。そのような人々について「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くに それを見て 喜び迎え、地上では 旅人であり、寄留者であることを 告白していました。」と説明しています。信仰の人として死にましたが、「約束のものを手に入れることはありませんでした」と書いてあります。約束のところか、この世での私たちの人生を考えて見ますと大変、そのものです。歳をとることによって体は弱くなり、病にかかることも多くなります。また苦しみに遭うこともただあります。それによって時には私たちの信仰は揺るがされ、本当に神様はおられるのか、という疑問さえも持つように持つようになるときがあります。
信仰者は、この世で約束のものを手に入れることはなかったとしてもはるか遠くに神様の約束を見て喜び迎えていたのです。今の人生がどんなに大変であって、どんなに大きな苦難や苦しみ、悩みなどがあっても、たとえ自分がどんなに大きな病気になったとしても、天の故郷に憧れていた信仰者たちは神様の約束をはるか遠くに見て喜び迎えていたのでした。即ち、その約束は必ず成し遂げられるという希望を持っていて生きていた、ということです。そして16節には、信仰者たちはもっと良い故郷、即ち天の故郷に憧れていたと書いてあります。
信仰によって行き、信仰の人として死ぬという生き方は、神様の恵みと愛によってその罪が赦され、御国に迎え入れられるという信仰と希望を持って生きていくことです。そのような信仰者が見上げるべきものは、まことの天の故郷です。この世のどんな状況の中でも私たちに与えてくださった神様の約束が完全に成し遂げられる天の故郷を覚えて、希望を持って歩んで行きたいと思います。

5月14日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「良い地に蒔かれた種」           マタイの福音書13章1〜23節
今日からマタイの福音書13章に入りますが、このマタイの福音書13章には御国についてのたとえばなしが7つ書いてあります。その中で今日は一番最初の「種蒔きのたとえ」です。
先ずはたとえばなしについてですが、イエス様はたとえばなしで御国について説明する理由を教えてくださいます。イエス様は11節で「あなたがたには 天の御国の奥義を知ることが 許されていますが、あの人たちには 許されていません。」と語られます。ここでイエス様は天の御国の奥義を知ることが許されている人と、許されていない人と二つのグループに分かれていることをはっきりと語られます。即ち、イエス様のお話しを聞いて理解する人とそうでない人、悟る人とそうでない人がいる、ということです。そしてその違いは、神様が天の御国の奥義を知ることを許されたのか、そうでないかということです。ところが考えて見れば、本来人間は誰一人、自らの力で神様を知ることは出来ません。ですからいくら私たちに御国の奥義について教えてくださっても知ることはできません。しかし神様はある人々には「天の御国の奥義を知ること」と許して下さったのです。本来は全く分からないことですが、神様が知ることを許してくださったため、知ることが出来る。ということは、これは神様の恵みであるということができるのです。私たちがこのように教会に集まっていること、このように神様を知り、神様を信じていることも全て神様からの恵みであるのです。
そこでたとえばなしの内容です、種蒔く人はイエス様を、蒔かれる種は福音を、そして種が蒔かれるそれぞれの土は福音を聞く人々の心のことです。最初の道端というのは頑なな心を表します。蒔かれた種は硬い土のゆえに根を下ろすことが出来ない。それと同じように頑なな心によって福音を聞いても受け入れない人のことです。二つ目の岩地は福音を聞いて喜んで受け入れますが、土が薄いため根を張ることができない人のことです。三つ目の茨の中は、成長することを茨が防ぐことによって実を結ぶことが出来ない。そのようにこの世のものに心を奪われてしまい、信仰の実を結ぶことが出来ない人のことです。最後の四つ目は良い地ですが、この人はみことばを聞いて悟り、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
私たちの本来の心は道端であり、岩地であり、茨の中のようなものでした。福音を聞いても受け入れない、成長出来ない、実を結ぶことが出来ないものだったのです。しかしそのような私たちに神様の恵みが与えられ、頑なな心が良い地に変えられ、福音を受け入れ信じるようになったのです。このように私たちは神様の恵みを頂いた者であることを覚えまして、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶことが出来るように、祈り求めて歩んで行きたいと思います。