5月22日(日) 礼拝メッセージ要旨
「荒野に向かわれるキリスト」 ルカの福音書4章1~2節
危機というものは、平凡な私たちの日常生活において起こる。その事実を今度の東日本大震災は、生々しく私たちに記憶させました。この危機をどう受け止め、乗り切るか。そのことによって私たちの人生は、右か左か大きく変わっていくのであります。 「荒野の誘惑」と呼ばれている出来事もイエスの公生涯における危機的な状況でありました。イエスは洗礼を通して、神の子としての確信を与えられ、いよいよこれから救い主キリストとしての使命に生きようとされたその時、危機が訪れたのです。ルカはその事を「聖霊に満ちたイエスが、御霊に導かれて荒野におり、40日間悪魔の試みに会われた。」(ルカ4:1~2)と記しました。私たちと違う神の子が、しかも聖霊に満たされた時、この悪魔の最も大きな試みに会われたのです。聖霊により強く扱われる時は、悪魔がより強く働く時だということを、イエスご自身の経験において、私たちにはっきりと示されているのです。では何故イエスは、試みに会わなければならなかったのでしょう。神に等しい神の子が悪魔から試みられることなど考えられないことです。この問いを考える時、想起すべき第一のことは、イエスはまことの人として、罪人のようにバプテスマのヨハネから、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を受けられました。そのことは、イエスがはっきりとご自身を人の立場に、いいえ罪人の立場に置かれたということです。この立場は「荒野の誘惑」にも継続され、荒野でまことの人として、罪人の場に立つ者であれば、悪魔の誘惑のもとに置かれるのも当然のことでした。そこで聖霊はイエスを荒野に導かれたのです。それゆえに想起すべき第二のことは、イエスは「最後のアダム(第二のアダム)」(第一コリント15:45)として荒野に導かれているということです。最初のアダムは人類のかしらでありました。最後のアダムであるイエスも人類のかしらです。そのイエスは荒野において敵とただ一人、一対一の戦いをされたのです。最初のアダムと最後のアダム(イエス)の共通するところは、まことの人であり、同じように誘惑に会ったという点です。しかし決定的な違いは、最初のアダムが試みに会った場所はエデンの園でした。そこに、神によって創造された罪のない完全な人アダムが居ました。最後のアダムであるイエスは荒野で試みに会われました。イエスも神によって生まれ聖なる罪なき者として荒野に立たれました。最初のアダムはいかなる欠乏もない、喜びと豊かさに囲まれた満ち足りたエデンの園、一方イエスは欠乏と貧困、飢えに囲まれた荒野におられました。この場所こそ決定的な違いでした。何故荒野なのでしょうか?それはキリストの使命と深く関係しております。今イエスが救い主として出て行かれるところは荒野のような人間社会であります。そこは人間らしさを失い、希望のない人々が「苦しみ、飢えさまよい、苦難と闇、暗黒と苦悩の中にある。」(イザヤ8:21~23)そのような荒野のような世界に向かって、イエスはその人々の救いのために荒野に向かわれるのです。