5月15日(日) 礼拝メッセージ要旨
「日毎の糧といのちの言葉」 ルカの福音書4章1~4節
世の人によく知られている聖書の言葉に「人はパンだけで生きるのではない」というルカ福音書4章4節の言葉があります。旧約聖書の申命記8章3節にすでに語られている言葉です。一般にこの言葉は、人間はパンなどの物質的なものによって生きるのではない。もっと霊的なもの、精神的なものによって生かされるのだと理解されております。またある人達は、「人はパンだけで生きるものではない。それは正しい。しかし、それでもパンがなければ生きられないのだ。」と言います。この聖書の言葉を理解するうえで大切なことは、この言葉は、主イエスにとって切実な言葉であり、誘惑と試みの戦いの中から語られた言葉であるということです。主イエスは40日間何も食べず、空腹を抱えながら、サタンの試みの声を聞かれたのです。主イエスは今、身をもってパンさえあれば救われることを味わっておられます。まさに飢え渇きを体験された主イエスがこの言葉を語っておられるのです。ですから主イエスはここで物質的なものか、それとも精神的、霊的なものか、どちらが大切なものなのかと問うておられるのではないのです。神は私たちの飢え渇きを知っておられ、パンを与えて下さるのです。しかし、あなたがたはわたしの言葉によって生きるのだと言われるのです。神の言葉によって生きるとは、神の言葉を聞き、神によって導かれて生きるということです。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8章3節)主イエスはこの言葉に立ちました。昔、神がイスラエルの民に語られた言葉を、今自分のこととして受け入れられたのです。それはやがてガリラヤで活動される主イエスの伝道の原則となりました。まず、そこで出会う貧しさと病と差別に苦しむ人々に対して、自分がどのような救い主であるべきかをはっきりと示されました。主イエスは貧しい者に食を与え、病める者をいやし、差別に苦しむ者を慰められました。つまりパンを与えられたのです。しかしそれと同時に神の言葉を与え、信仰を与え、罪の赦しと神の祝福を与えられたのです。 さて、荒野の誘惑は、主イエスが勝利し、それで全てが終わりではありません。「悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」(ルカ4:13)だけです。やがて十字架を前にして、再び悪魔に同じような試みを受けられたのです。その時、「父よ、みこころならばどうぞこの杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」(ルカ22:42)と祈られたのは、パンではなく、神の言葉を選び取られた主イエスの姿を示しています。それは神のみこころである十字架を選び取られた主イエスの姿でもありました。