12月5日(日) 礼拝メッセージ要旨
「主イエスの恵みの手当て」 マルコの福音書8章22~26節
教会暦では待降節に入っております。英語では「アドヴェント(到来)」と呼ばれています。まさに「アドヴェント」は、神のある決定的な出来事が現れ出るのを、私どもが息を潜めて見守り待つ時でもあるのです。この事は、本日の聖書の箇所に登場する主イエスと盲人の姿に象徴的に描かれております。主イエスの両手を両眼に当てていただいた盲人が、少しずつ見えるようになり、やがて「すべてのものがはっきりと見えるようになった。」それは神の救いの歴史が「むかし、先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られた。」(ヘブル書1章1~2節)ことを物語っております。また、主イエスと盲人の出来事は、私どもの救いの姿を想起させます。私どもは、自分から求めてあるいはこの盲人のように、誰かに誘われたり、連れて来られたりして主イエスのところに来ました。しかし、そこから先は主イエスに手をとっていただき、導かれて、少しずつ聖書の教え、福音の真理の理解がすすみ、ついに、はっきりと主イエスは私の救い主と信仰告白し救われました。神の救いの歴史における一方的な神の恵みのわざ、私どもの救いにおける一方的な主イエスの愛のわざが、ここで語られているのです。さらにこの盲人が「主イエスを見つめ顔を上げる」「彼が見つめていると」という24節、25節の二つの句は信仰の姿を本質的にあらわしていると言えます。今、彼は主イエスに対して顔を上げて一心に主イエスの恵みを受けようとしている。そして精いっぱい目を大きく開いて主イエスを凝視している。その彼の目に、はっきりと最初に映ったのは、主イエスの慈愛に満ちたお顔であったと思います。この待降節を迎えて私どもも、主イエスの愛の恵みを体全体で受け止め、この御降誕から始まり、十字架に進まれる主イエスの姿をしっかりと見つめ続けることが出来ますよう、私どもの信仰の両眼に主イエスの両手を当てていただきましょう。