礼拝メッセージ

7月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「尊敬されないイエス様」          マタイの福音書13章53〜58節
マタイの福音書13章には、多くのたとえがあります。それらのたとえ話しを話し終えられたイエス様はご自分の郷里、ナザレに行かれました。そしてナザレの会堂で人々を教え始められました(53、54節)。今までイエス様はガリラヤの色々な地域を歩き回り、多くの奇跡を行われました。病人を癒してくださり、死んだ者を生き返らせたことをありました。そのようなイエス様の奇跡を行われた噂は、イエス様の郷里であるナザレまでも広がり、ナザレの人々もそれを聞いて知っていたと思います。
教え始められたイエス様、するとナザレの人々は驚いた(54節)、と書いてあります。噂だけを聞いていたナザレの人々は、イエス様からの素晴らしい教えを聞いて非常に驚いたのです。そして彼らは「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力を どこから得たのだろう。」と言います。イエス様が教えだけではなく、力ある奇跡も行われたようです。知へに満ちた教えを聞き、素晴らしい力ある奇跡を行われることをみたナザレの人々は、今まで噂で聞いていたイエス様に関することが事実であることを知りました。
それを知った人々の反応とは、私たちがよく知っているマリヤの息子であるイエスではないか、そのイエスがこれらのものをみな、どこから得たのだろうか、ということでした。昔から知っていたあの人が、一体どこからこの素晴らしい力を得たのか、と不思議がっていたのです。確かにイエス様はナザレで30歳頃まで生活していました、町の人々はイエス様の幼い頃から見ていたと思います。イエス様の母はマリヤであり、4人の弟と妹たちがいることまでよく知っていることでした。しかし、そのようなことを良くしていたとして、本当にイエス様を分かっていることでしょうか。ナザレの人々はマリヤの息子であるイエスは良く知っていましたが、キリストであるイエス様は全く分からなかったのです。イエス様を人間として思い、キリストであるはずがない、と思ったことです。神であられるお方が自分たちのところに来られまして、共におられたということは夢にも思わなかったことです。
このようなナザレの人々の姿は、今まで13章で見て見たたとえの内容の実例になります。種蒔きのたとえ、お宝と真珠のたとえなど、福音を聞いても受け入れない、見ても見ることができない人々なのです。そして本来は私たちもナザレの人々と同じでした。福音を聞いても受け入れない、お宝としての価値を分からない人々でした。しかしそのような私たちに神様は恵みを与えて下さいました。福音を受け入れることができる恵み、福音の価値が分かる恵みを与えてくださったのです。イエス様を救い主として信じる信仰を与えてくださったのです。この恵みに感謝し、救いの喜びを多くの方々に証しして歩んで行きたいと思います。

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