6月13日(日)礼拝メッセージ要旨
「自分の目の梁に気づかない我」 マタイの福音書7章1〜6節
人は誰も自分に対しては寛大であり、他の人に対しては厳しい姿を持っています。このような姿を持っている私たちは、神様の民として他の人々にどのように接して行くべきでしょうか。山上の説教の中で、イエスさまは神様の民の姿について色々を教えてくださいました。最後の7章では、人と人との関係に置いて神さまの民はどのような態度を取るべきであるのか、について教えてくださいます。
1節に「さばいてはいけません。さばかれないためです。」とありますが、私たちは誰にさばかれるのでしょうか。それは神さまにです。そしてこのさばく、ということは神さまのご行為なのです。ところが、自分の思いで他の人をさばく、ということは自分を神さまの位置に置くことになります。まるで自分が神さまであるように、他の人をさばくことはしてはいけないということです。
もし、神さまの民が天の父の神さまのことを忘れてしまい、他の人をさばいてしまったら、どうなるでしょうか。2節では「あなたがたもさばかれ、あなたがたも量られる」と書いてあります。イエスさまを信じて救われた私たちは、最後の審判においてはさばかれません。しかし、聖書は最後の審判での裁きだけではなく他の裁きについても教えています。それは、神の子とされた者が神さまの教えに従わなかった時、または神の子として相応しくないことをやってしまった時の裁きです。ですから、神のことされた者は神さまの教えをよく覚えてそれに従って生きて行かなければなりません。そしてもう一つは、死後の神の子のためにある裁きです。これはクリスチャンになってからの行いに対することでありまして、その行いによって報われることになります。ですから、私たちは神さまの民として天の父の神さまを覚えて、その教えに従い守って歩んで行かなければなりません。
そして、そもそも私たちは、さばくことができる存在でしょうか。3〜5節を見ますと、私たちは自分の目には梁があるのに、他の人の目のちりを取ろうとするものです。梁のことでよく見えないのに、目のちりのように小さいものを取ることができますでしょうか。それは逆にその人を傷つけることになります。しかし、私たちは、自分の目に梁がありながら、他の人の目のちりを取ろうとするものです。自分の過ちには気づかず、他の人の過ちには直ぐ裁きたがる私たちの姿に気をつけなければなりません。天の父なる神さまを覚えて、そのお方の愛によって私たちの目の梁が取られ、神さまの教えに従って歩んで行くものになりたいと思います。