礼拝メッセージ

5月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神と富」             マタイの福音書6章19〜24節
イエスさまは6章の前半で宗教的な行為である善き行い、祈り、断食について教えてくださいました。その宗教的行為において重要なことは「隠れたところで見ておられる」父なる神さまを覚えてということでした。そのように他人の目を意識せず、私たちをご覧になっておられる神さまを覚えて行う時、天の神さまが報いてくださると教えてくださいました。
6章の後半においては、この世を生きていく神の民が、この世と神さまに対してどのような姿勢を取るべきであるのかについて教えてくださいます。その姿勢において重要なことは、本文の24節にあります「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということは出来ません。」ということです。これはAかBか、どっちらかを選ばなければならない、ということです。一方に仕えていましたら、他方には仕えることができないのです。もし、神さま以外のものに仕えていれば、それはもはや神さまを真実に愛していないことになる、ということです。私たちは神さまをも愛し、この世をも愛しようとします。しかし、24節のイエスさまの教えによりますと、神さまを愛しながら世をも愛することはできないことです。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。ですから神さまを主人として仕え、神さまのみを愛しなさい、ということを教えてくださっておられます。
そこで神さまを愛することについて「自分の宝を地上に蓄えるのをやめて、天に蓄えなさい」と語ってくださいます。ここでの宝とは、富やお金だけではなく、この世での名誉や地位、健康や家族など、自分にとって大切なものです。その大切なもの自体が悪いということではなく、それに対する私たちの姿勢がどうなのか、ということです。その宝を神さまより大切にすること、それはその宝に仕えることであり、自分の宝を地上に蓄えることです。しかし、この地上のものは虫とさびで、きず物になります。それがどんなに立派で美しいものであるとしても、この世のものは終わりがあり、人間の心を満たすことはできず空しいものです。
自分の宝を天に蓄えること、それは神さまを主人として仕えることです。この世のものは神さまに仕える手段として使え、神さまの栄光を表すための手段として用いることです。そのためには、私たちは神さまの管理者であり、自分の全ては神様から与えられたものであることを覚えて、神さまのために使えなければなりません。信仰者である私たちは、この世において旅人です。神さまの管理者です。ですので、神さまの御心にしたがって神さまの栄光を表す者として歩んで行きたいと思います。

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