礼拝メッセージ

5月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「悲しむべきこと」             ルカの福音書23章27〜31節
ピラトはイエスさまの無罪を主張しましたが、ユダヤ人たちの求め通りにイエスさまの十字架形が決まりました。その後、イエスさまは鞭で懲らしめられて処刑所であるゴルゴタの丘へと十字架を背負って歩んで行かれます。その苦しみの道において、身体中の傷と重い十字架のため、イエスさまは何度も倒れられます。結局、ローマの兵士はそこにいたクレネ人シモンに十字架を背負わせました。すでに疲れ果てたイエスさまはふらふらしながらゴルゴタの丘へと歩まれまして、そのようなイエスさまの周りには多くの人々が集まり、イエスさまの後についていました。
そしてその大勢の人々の中には「イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れ」がいました。イエスさまが捕まえられた後、イエスさまのみがたは一人もいないようでした。多くのユダヤ人たちは、イエスさまを罵りあざけまして十字架につけろうと叫びました。しかし、その中にも「イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れ」がいたことを著者ルカは記していたのです。
イエスさまはその女性たちのことを「エルサレムの娘たち」(28節)呼んでおられます。ですから、この女性たちはガリラヤからイエスさまについて来た女性たちとは異なり、エルサレムに住んでいた女性たちであると思われます。彼女たちは、イエスという人が十字架に掛かるという話を聞いて街に出て、十字架を背負って歩まれるイエスさまの姿を見たでしょう。血のまみれとなっているイエスさまの姿を見て嘆き悲しんだことだと思います。
その女性たちにイエスさまは、「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」と仰い、それは『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからでした。これは紀元後70年に起こったエルサレムの滅びのことでありまして、その苦しみのことを予言してくださったことです。これから大変恐ろしい、酷いことがあなたがたに起こるから、自分自身と子供たちのことのために悲しみ嘆きなさい、ということでした。
私たちは何を嘆き悲しむべきでしょうか。それは終わりの時の最後の審判ではないでしょうか。しかし、この時イエス様は私たちを救ってくださるために、苦しみを受けられ十字架につけられ、ご自分の命を捧げて下さいました。そしてその十字架によって、信じる私たちはその恐ろしい最後の審判から救われました。その救いの喜びを覚えまして神さまに感謝し、愛する人々のこの福音を伝える者になりたいと思います。

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