礼拝メッセージ

1月24日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「捕まえられたイエスさま」        マタイの福音書26章47〜56節

本日の本文はイエスさまが捕えられる内容です。木曜日の真夜中、ゲツセマネの園で祈りを終えたイエスさま、そして11人の弟子たちがいるところに大勢の人々が押し寄せて来ました。その大勢の人々は「祭司長たちや民の長老たちから」送られた人々でありまして、彼らは手に剣や棒を持ってイエスさまを捕まえるために来たのです。そしてその大勢の人々の中には、イエスさまと弟子たちと共にいるはずの一人の人がいましたが、彼はイスカリオテ・ユダです。ヨハネの福音書18章3節に「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」と書いてありますように、その人々を連れて来たのはユダでした。
そしてユダはイエスさまに口付けの挨拶をします。口付けの挨拶、それは相手に対する尊敬と愛を、そして親しい関係であることを表すものです。しかし、この時、ユダはそのような尊敬の愛の心からではなく、イエスさまを兵士たちに渡す合図として、口付けの挨拶をしたのです。
そのようなユダと武器を持って自分を掴まえるためにきた大勢の人々の前でのイエスさま、そのイエスさまのお姿はその人々を待っていたようです。最後の晩餐の後、エルサレムから出て、そのまま誰も知らない場所に行くことも出来ました。しかし、イエスさまはユダも知っている場所に行かれました。まるでユダを待っておられたようにです。そしてその後、イエスさまは聖書が成就するために、ということを語られます。この場所から避けることも出来ましたし、この状況を逆転されることも出来ますが、そうしなかった、なぜなら聖書が成就するためにです。父なる神さまのみこころに従う、神様に信頼するイエスさまです。
そしてこれは神さまのみこころが成し遂げられる場面です。弟子たちには失敗にしか見えないことですが、ここに神さまの愛が現れているのです。私たちの目には、失敗のように見えることでも、それを通して私たちに愛を示してくださる神さまを覚えて、そのお方に頼りつつ歩むものになりたいと思います。

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