4月17日(日) 礼拝メッセージ要旨
「心のきよい者」 マタイの福音書5章8節
本日の本文は山上の説教の六つ目の祝福です。イエス様はご自分のもとに集まって来た弟子たちに向けて「何て幸いなんだ、心のきよい者よ。その人は神を見るからだ。」と仰って下さいました。
ここに書かれている「神を見る」というのはどういう意味でしょうか。この「見る」ということばと似た表現として「知る」ということばがあります。即ち、神を見るということと神を知るという表現が同じ意味で使われているのです。エペソ人への手紙1章17―19節でパウロは、エペソ教会の聖徒たちの心の目がはっきり見えるようになって神さまがどのようなお方であるのかを知ることが出来るように、と祈っています。それは「見る」ということと「知る」ということが同じ意味であるということを現わします。私たちが神さまを深く意識し経験することができるなら、それは神さまを知ることであり、そのように神さまを知るということは神さまを見ることであると言えるのです。
このように神さまを知るためには何が必要でしょか。それは心のきよさです。本文の「きよい」ということばには二つの意味がありまして、その中で一つ目は清い状態のことです。私たちの心が罪によって汚れているならば、神さまを見ることが出来ません。もし見えるとしても、それは微かに、ぼんやりとした見え方だと思います。そして二つ目の意味は、心が分かれていないといことです。二つの心ではなく、一つの心という意味です。二つに分かれている心、それは神さまからご覧になってきよくないことです。ただ神さまだけに私たちの心を向けなければならないのです。
このようなきよい心のために、クリスチャンである私たちは神様に近付いて行こうと努力しなければなりません。そして神さまに「私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」とダビデのように祈り求めなければなりません。神さまの御前で心のきよい者となりたいという願いをもって神さまに祈り、ただ神さまだけを見上げて歩む者となりたいと思います。