礼拝メッセージ

5月31日(日)礼拝メッセージ要旨 ピーター・ベイクラー宣教師

 

「こわれた水ためをほる。」       エレミヤ書2章1節−13節

エレミヤは使者として神様から選ばれた人であり、預言者です。エレミヤは、ユダの人々や、イスラエルの南の地方の人々が神に背いていた時代に生き、神の御言葉を伝えていました。彼らはかつては若い花嫁のように神を愛し、神に対して誠実であったが、この時代には神から背を向け、神を忘れてしまいました。神を求めることはもはや無くなってしまいました。エレミヤは、その人々の偶像礼拝、人々の愚かさと不道徳を寓話的に、つまりたとえを持って描写しました。

神の使者としてエレミヤは、人々は、生ける水の泉である神様を捨てて、水を溜めることのできないこわれた水ためを、自分たちのために堀っているのだと述べたのでした。

この描写は、今日の私たちの人生にも、エレミヤの時代と同じようにあてはまります。私たちが、生ける湧き水としての神様を見捨てる時、私たちは、こわれた水ためを堀り、そこにはない水を飲もうとしているのです。

こわれた水ためを掘ること:
こわれた水ためは、人生の究極的源の意味と目的である神の代わりにしてしまうものです。それは良いものでさえこわれた水ためになってしまうのです。

生ける水をだす泉から飲むということ:
エレミアを通しての神様からのメッセージは、人々の罪を示していました。神様を認め、謙虚に罪を認めることが、悔い改めへの最初の段階です。悔い改めとは、自分のこわれた水ためから背をむけ、命の泉から深く飲むということです。

イエス・キリストは生ける水の泉:
イエス様は、生ける水をお与えになるのはご自分であるとおっしゃいました。(ヨハネの福音書4章13‐14節、7章37節) キリストにあって、私たちが命に必要なのは恵みと赦しなのです。

こわれた水ためを掘ることによって私たちの命を見つけることはできません。
こわれた水ためは、私たちの命のためのもっとも必要なものをためておくことはできません。イエス様は命です。イエス様は私たちを十分に満たしてくださいます。

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