9月28日(日) 礼拝メッセージ要旨
『神の教会』 使徒の働き20章28~38節
パウロの人生を貫いていた一本の棒のようなもの…それは「謙遜の限りを尽くし、涙をもって…わが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。」(使徒20:19)という生き方でした。彼は今、その「自分の走るべき行程を走り尽く」(使徒20:24)そうとしています。しかし、その道は彼が選び取ったものではありませんでした。それは「主イエスから受けた」(使徒20:24)決められた道、彼のために備えられた、選び与えられた、神の恵みの福音をあかしする務めでした。これこそ、パウロの命の使い道、主から与えられたパウロの使命でした。その使命のためなら死んでもよい、いつでも死ぬ用意は出来ていると言い切ることが出来たそのパウロの決意、心境というものが24節の「私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」という言葉にあらわされております。今パウロは「三年の間、夜も昼も、涙とともに」(使徒20:31)育て上げてきたエペソの教会と別れ、エルサレムに向かおうとしています。別れに先立ち、パウロはミレトでエペソの教会の長老たちに、後ろ髪を引かれる思いで残していくエペソの教会の群れのことを託したのです。これ以上どんなに心配しても、どうなるものでもありません。委ねるほかはないのです。ではパウロは、教会の群れを、牧師、長老、誰々先生という、人間の手に委ねたのでしょうか。いいえ「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。」(使徒20:32)と述べております。教会は神とキリストが造り出し、聖霊が運営しておられる所ですから、究極的には、教会の将来は、『神とその恵みのみことば』にゆだねられています。これはパウロの伝道に対する一貫した方針でした。神の恵みの福音を伝え、神の教会をたてるために全力疾走、完全燃焼して来たパウロは、今ここで、自分の手の業全てを主にゆだねる決断をさせられているのです。その時、「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)は、「神とその恵みのみことば」によって守られるのだということを信じて、神におまかせしたのです。