4月27日(日) 礼拝メッセージ要旨
「最後の拒絶」 ルカの福音書13章31~35節
主イエスのご生涯を一言で表現しようとしたら、その言葉は「拒絶」こそがふさわしいことばかと思います。「拒絶」それは主イエスの誕生の時から始まった出来事であり、そのご生涯の出来事そのものであり、そして最後に、この世の主イエスに対する「拒絶」が形となったのが、あのゴルゴダの丘の十字架といえます。主イエスの誕生の時から御子イエスを受け入れなかった人の世は、依然として主イエスを拒み続けております。それがエルサレムという神の都において象徴されていると、ルカは34節で主イエスの嘆きの言葉を書き記すのです。「ああ、エルサレム、エルサレム。…めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(ルカ13:34)ここで主イエスは親鳥として、ひな鳥をご自分のみ翼の陰に憩うことを願ったのに、エルサレムは拒否したと、深く嘆いておられるのです。「エルサレム、エルサレム」と名を二度も重ねながら嘆いておられるのです。主イエスが「拒絶」され続けてきた影の部分は、たとえようもなく濃いものとしてだんだん太い線となって「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(ルカ13:33)と、十字架の死にまで言及されていきます。その死に向かって、主イエスは「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、このことは決まっているからです。」という固い決意のことばが語られます。どうして主イエスはこうまで、がむしゃらに前へ前へと進まれるのでしょう。それは最後の「拒絶」に出会うためです。それなくしては、十字架の贖いは完成しないからです。その最後の「拒絶」とは、神からの「拒絶」です。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)神が神を見捨てる。誰がこの事を理解できるでしょうか。この人知を超えた出来事によって、私たちは赦され、愛され、救われたのです。