3月30日(日) 礼拝メッセージ要旨
「恵みへの決断」 ルカの福音書13章22~30節
主イエスのエルサレムへの旅。決して戻ることのないエルサレムへの旅。この主イエスの旅の姿をルカはとても大切な事柄として書きました。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた。」(ルカ9:51,53)その旅とは、エルサレムで死ぬための旅でした。(ルカ13:33)ですから、今この時、通り過ぎておられる町や村が、まだエルサレムから遠い所であったとしても、主イエスの旅の目的がエルサレムに向かうものであったと記しております。(ルカ13:22)そのことを忘れたら、主イエスのお姿を私たちは正しく理解することは出来ません。ですからルカは福音書を記すにあたり、急所、急所で主イエスのエルサレムへの旅を書き記したのです。ルカの心にいつもあった思いは、エルサレムとは、主イエスが死に往く場所、死なれた場所であったということです。その旅の途上で「努力して狭い門からはいりなさい(ルカ13:24)というお言葉を契機として、救われることの意味を述べておられます。主イエスがここで私たちに問うておられることは、救われる人数が多いか少ないか、誰が救われるかということではなく、問題は「あなたの救いにあります。あなたが救われるために、今何をするかが問われている。」と主イエスは言われるのです。そして主イエスが最後の日に問われることは、「あなたがたはどこの者か」(ルカ13:25,27)ということです。何を行ったか、何を知っているかではなく、「どこの者」かという、信仰の根拠です。そしてここで語られている狭い門とは、ほかでもなくイエス・キリストその人であることがわかります。狭い門とは、キリストとその十字架です。この十字架の恵みへの決断のことです。そのため主イエスは、私たちの心の扉をたたき続けておられるのです。そうだとすると、心を閉ざし、その招きの声を聴こうとしないこと、それこそが罪であり、「不正を行う者たち」(ルカ13:27)の意味なのです。