2月9日(日) 礼拝メッセージ要旨
「輝かしい主の御業」 ルカの福音書13章10~17節
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩編46:10)「静まって」とは「やめよ」という意味で、自分の活動を神の前にやめるということです。中世の人々はここに余暇(レジャー)の本質があると考えました。神の前に神と共に憩う、そして自分と世界とを見つめ直し、永遠の神の前に自分自身を取り戻すこと。従って余暇とは礼拝と深く結びついた行為なのです。礼拝とは、神を喜ぶ聖なる時であります。6日の間、世界を造られ、7日目に世界をご覧になり、「はなはだ良かった。」と祝福された神。静まって世界を見つめる神がそこにおられます。しかもこの日、7日目、神は決して遊んではおられません。6日間の業とは全く違った仕事をしておられます。それは「祝福」と「聖別」です。「祝福」とは、神の創造の御業をほめ、喜びを共にし感謝することです。「聖別」とは、神とのかかわりを持ち、神に献げられることです。そして、真の安息日(礼拝)は、この二つが欠けては成り立ちません。本日の聖書の箇所は、まさに、主の日の礼拝の意味が問われている箇所です。 主イエスはある会堂で教えておられた時、18年間も腰が曲がったままであった女を見て、「あなたの病気はいやされました。」と言われました。「あなたはすでに病気から、もう自由になっている。あなたを18年間捕えてきた病気からは、もう自由です。」そう宣言されたということです。ここにすでに神の支配、神の国がこの女の内側に訪れているのです。しかしこの出来事が会堂管理者との論争になりました。問題は女は自分の身の上に現わされた、キリストの輝かしい御業を通して、神の支配が始まっていることを知り、神をあがめたのに対し、会堂管理者がその事実を見ようとしませんでした。女は主イエスの前に居ました。そして主イエスは、この女に手を置かれました。会堂管理者は何を見ていたのでしょうか。私ども自身も失われた者でありました。体は健康であっても、心は曲がり全く伸ばすことが出来ない者です。その私どもに主イエスは声をかけて呼び寄せてくださり、手を置いてくださいました。「神の訪れの時」は、この私の身の上にも実現したのです。この悔い改めと主イエスのなさった全ての輝かしい御業を知った時、私どもは真に神を礼拝するものとされるのです。