礼拝メッセージ

10月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の御名を呼び求めて」             創世記4章23~26節

「その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:26)人間は悪の行き着くところまできて、やっと主を礼拝し、主の御名を呼び始めたのです。何と長い時間が必要であったことでしょうか。創世記4章は、カインの弟殺しから始まった人間の罪の姿を描いております。そのもっとも如実に示されているのが「レメクの歌」と呼ばれる23~24節に記されている歌です。彼は上機嫌で歌うのです。「俺は傷を負わせた奴には、殺しで報いてやった。どうだ凄いだろう。ちょっとでも俺に刃向かう奴は、情け容赦なく切り捨てる。そうすれば皆が俺様を恐れて、逆らう奴はいなくなる。」と。このように創世記4章は、人間が作り出す長い歴史の実相をずばり描き出しているともいえます。「神のように」自由に、「神のように」強くなりたくて、禁断の木の実を食べた、人間の行き着く先は、自己防衛から過剰防衛、ついには先制攻撃となるのです。人の悪意と殺意に怯えるだけのものになっていくのです。このような一連の出来事を、アダムとエバを全て見ていたのです。彼らは自分の子どもが自分の子どもを殺す様を目の当たりにした親です。彼らは加害者の親であり、また被害者の親でもあります。アダムとエバの悲しみは深いのです。しかし、全てが救いようのない絶望に終わるのではありません。彼らに「セツ」が与えられました。この命は神様が授けて下さったものだという思いが、その名前に込められております。さらに「セツ」に男子が誕生します。神様の支えなくして生きていけない命という意味を込めて「エノシュ」と名付けられました。こうして人間はここまできてやっと、主を礼拝し始めたのです。ここに来るまでにどれだけの命が犠牲になったことでしょうか。この人間の罪の歴史は、ついに神の子の命の犠牲に行き着くのです。その全ての様子を父なる神は見ておられ、愛する御子が殺される様を黙って見ておられたのです。この十字架の犠牲に神の圧倒的な赦しの愛を見て、自分の罪を悔い改め、主イエスを信じ、主の御名を呼び求める時、人は新たに生き始めることが出来、主を礼拝しつつ生きる命が与えられるのです。 


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