7月28日(日) 礼拝メッセージ要旨
「しきりに願ったらよいのです」 ルカの福音書11章5~13節
さて あかんぼは なぜに あんあんあんあんなくんだろうか ほんとうに うるせいよ あんあんあんあん あんあんあんあん うるさかないよ うるさかないよ よんでるんだよ かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなに しつっこくよびな (八木重吉) 主イエスの「主の祈り」の教えについて、ある説教者がこう書きました。「主はここで、われわれに幼子の心を回復するように求めておられる。」と。「主の祈り」は「父よ」という短い言葉から始まります。神を「父よ」とひとことで呼んでおります。しかも、そのひとことにすべての思いを込めるのです。赤ん坊は「あんあん」泣くその声に、すべての思い願いを込めて訴えます。八木重吉はその幼子の心を単純素朴に表現しました。主イエスの5節以下の譬話の中味は、祈りにおける「願い」は、まさに、神さまに「おねだり」しているかのように「願う」祈りについて教えられます。真夜中に訪れた友人のために、その人は別の友だちのところに「パンを三つ貸してくれ。」とお願いに行きます。彼は友だちだからではなく「あくまで頼み続けるなら」必要な物を与えてくれるというのです。この譬話で、「パンを与えてくれる友だち」は神さまです。その神さまが、私たちが困って訴えるその訴えに耳を傾けなかったならば、それは「父」としての神ではなくなってしまうのです。主イエスがそのように語られたということに深い意味があります。私たちの願いを聴いてくださらないと神が神でなくなるのです。私たちを友人として重んじて、深い交わりを持ってくださる神さま。その神さまに「しきりに願う」「あくまで頼み続ける」祈りに徹することが、私たちに求められているのです。神さまに遠慮はいりません。あの赤ん坊のようにしつっこく呼び求めるのです。なりふり構わず飛び込んで行くのです。祈りとはそういうものであります。そこで生ける神に出会うのです。