5月26日(日) 礼拝メッセージ要旨 大竹 護牧師
「仕える者として」 マタイの福音書20章25~28節
イエス様が人間として生まれた。何のためでしょうか。イエス様がご自身がこのように言われていました。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、」マタイ20章28節a 神が人となる。それは罪人に仕えるため。仕えられるためではなく、かえって仕えるために人となられた神。私たちの神様は、私たちに仕えるために、人となられた神様だということです。私たちに仕えるために、神が人となられたことの重さ。ここでイエス様が語られた言葉が、いかに凄いことを語っているのか。私たちは味わっているでしょうか。 神様から離れた人間。罪人の思いの一つは、自分を高くしたい。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。どうしても、自分を低くするということが分からない。罪の思いというのは、自分を高く高く、上へ上へと向かわせるのです。そのような私たちに語られたのが、今日のイエス様の言葉です。「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。むしろ地位があり、偉いというのは、皆に仕える者であり、しもべとなること。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」と教えられるのです。この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これが真の宗教でありキリスト教です。 このように教えて下さったイエス様は、ただ教えて終わるのではなく、私たちにご自身のいのちを下さいました。 神から離れたいのち。罪人のいのちは、自分を偉く見せたい。自分を偉いと思いたい。人を支配し、自分の思い通りに動かしたい。そのように思うしか出来なかった命です。その自己中心的な命を持つ私たちに、キリストはご自分のいのちを与えて下さった。それはつまり、仕えることが出来るいのち。仕えることが喜びとなるいのちを下さったということです。私たち皆で、キリストのいのちに生きる歩みをしていきたいと思います。