3月31日(日) イースター礼拝メッセージ要旨
「復活―裸の命に目覚めよ。」 ヨハネの福音書11章1~27節
1941年8月14日午後12時50分、一人の神父がナチスの手によって、アウシュヴィッツ強制収容所で、餓死処刑者として47才の生涯を静かに終えました。その名はコルベ神父と言います。妻子ある男性の身代わりを申し出て、他の9名の囚人と共にコンクリート独牢にぶち込まれ、人間としての尊厳を完全に奪われた形で、餓死させられたのです。処刑を免れた男はポーランド軍の軍曹で、彼は生き残りワルシャワに帰ることが出来ました。しかし愛する16才と14才の二人の息子たちは、ソ連兵に殺され妻だけが残されました。彼は生きる力を失い、生きていることに何の意味も見出すことが出来ませんでした。コルベ神父の身代わりもその時の彼にとって、ひどく重荷となりました。その彼を立ち直らせたのは、黙って側に居てくれた妻のある言葉でした。「与えられた生命は、すばらしいではありませんか。」妻はそう言ったのです。そのことばが彼をようやくにして立ち直らせたのです。「人の生命は自分が手に入れたものではなく、贈られ与えられるものなのだ。」そう気付いた時、彼の人生は輝き始めたのです。 主イエスが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25~26)と言われた「いのち」とは、この世でいつまでも長生きするいのちではなく、神から与えられて在る「いのち」として、本来の命の輝きを取り戻す「いのち」のことです。ラザロの甦りは、まさにそのことを証しするために、主イエスがなされた奇跡であったのです。それゆえに主イエスが甦ったラザロを「ほどいてやって帰らせなさい。」(ヨハネ11:44)と、裸のままで帰らせたのは、与えられ、贈られて在る「いのち」に私たちが、仕事、地位、財産、才能、学歴、業績、思想や主義、好みや生き方などで自分を装って生きて来たそれら全てを取り払って、裸のいのちに目覚めること、すなわち神から与えられて在る「永遠のいのち」に気付くこと、それが取りも直さず「命の甦り」なのです。復活とは「与えられた生命は、すばらしいではありませんか。」と与えられて在る今の「いのち」の輝きに目覚め、私たちが立ち上がって希望に生きる時なのです。