3月17日(日) 礼拝メッセージ要旨
「祈りのかがみ」 ルカの福音書11章1~4節
「主の祈り」は、その内容の豊かさ、深さ、広さのゆえに、いろいろな呼び方がされてきました。ある神学者は「世界を包む祈り」と呼びました。私たちの日常生活とあらゆる喜びと悲しみ、苦悩と戦いに満ちた世界を包む祈りだからです。またある説教者は「勝利の祈り」と呼びました。なぜなら「主の祈り」は十字架において砕かれた人々、自分の無力と失敗の多くの経験を通して、主に全面的により頼むことを学んだ人々、聖霊によりただ主の恵みのうちに生きることを選びとった人々によって祈られるものであり、ただ主の祝福と力によってのみ導かれることによって、真の勝利の生活を得ることができるからです。さらにある人は「家族の祈り」と呼びました。キリストにある信仰を通して、神の家族とされた者だけが、神を「父よ」と呼ぶことができるからです。また「弟子たちの祈り」とも言われてきました。何よりも「主の祈り」は弟子のひとりが主イエスに「私たちにも祈りを教えてください」と願い求め、直接的には弟子たちに与えられた祈りだからです。さらに「共同の祈り」とも呼ばれてきました。世界の公同教会の礼拝の場で祈られているからです。 このような「主の祈り」は、主イエスのキリスト者に対するあるべき姿について、明確な考えから生まれたものです。主イエスのキリスト者像とは「主の祈り」を祈るキリスト者にありました。ですから弟子たちに祈りを教えてほしいと求められた時、主イエスは即座に「主の祈り」を教えられたのです。 私たちは、この「主の祈り」を通して自分の祈りを吟味し、さらに自分の信仰を吟味することができます。なぜならそこに、真の霊的クリスチャンの姿があるからです。まさに「主の祈り」こそ、私たちが主の願うようなクリスチャンになっているかどうかということを試みる試金石なのです。