2月24日(日) 礼拝メッセージ要旨
「力への渇望の時代」 エペソ人への手紙6章10~12節
現代は「力」を求める時代です。強くなかったら生きていけないかのように言われてしまう時代です。それを裏付けるかのように、「00力」と題する本がブームになっており、昨年のベストセラーは「聞く力」(文春新書)でした。何故次々と「00力」という本が売れ、出版されるのでしょうか。このような状況を生み出す背景には、現代社会の構造があります。「グローバル化」「構造改革」「市場原理主義」「新自由主義経済」等で表わされる「地球経済システム」が目指す人間像は、「強さ」が求められる人間です。とてつもなく「強い」人間でなければやっていけない。そしてこのようなグローバル経済システムの中で勝つためには、「力」が必要なのです。負け組になれば、その結果は自己責任として、自分で負わなければならないのです。ですから「弱さ」は極力忌み嫌われるものとなります。市場における成功を勝ち取り、最大の報酬を得るように努力し、その強さを保ち続けることが、現代社会の中で勝つための条件です。しかし、私たちには本当にそんなことが可能なのでしょうか。パウロが「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)と言う時、その「力」と「強さ」は、現代社会が求めているような「力」のことでしょうか。いいえ、神はあえて、主イエスを無力な存在としてこの世に送られたのは、私たちがこの世の間違った「強さ」から自由にされ、「まことの強さ」を持って、主イエスに与えられたのと同じ聖なる力をもって、この世を生きることができるように、道を開いてくださったのです。そのために神は小さな赤ん坊になられ、この世に生まれました。これこそ神が「まことの力」を示すために選ばれた手段でした。パウロが言うところの「強さ」は、キリスト者の中から出る力強さではありません。人間が努力し頑張ればなれる強さではありません。それは、注ぎ込まれる力、強められる強さであります。キリスト者の外から、上から与えられる強さなのです。一人一人が直接、「主にあって、その大能の力」の中にいて、強められていることが大切なのです。そして幸いなことに、主イエスはいつ、いかなる時にも、私たち一人一人と共にいてくださるのです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(コリント人への手紙第二12章9節)