礼拝メッセージ

2月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「誰が真の隣人か」             ルカの福音書10章25~37節

「善きサマリヤ人」という表題で、私たちが親しんできましたこのたとえ話には、主イエスがこのサマリヤ人について「善良」であることについて語られた言葉はありません。ですから正確には、「サマリヤ人に親切にされた人の譬」なのです。この物語で重要な意味を持つ言葉が「かわいそうに思い」(ルカ10:33)と訳されている言葉です。もともとの意味は「共にに苦しむ・共に耐える」です。「あわれみ」と訳される言葉です。「あわれみ」は傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている場所へ入って行かせ、失意や怖れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また悲惨のなかにある人と共に叫び声をあげ、孤独な人と共に悲しみ、弱い人と共に弱くなり、傷ついた人と共に傷つき、無力な人と共に無力になることを要求します。                         現代社会が今最も必要とし、求めているもの、それは「共に生きる」隣人です。「あわれみ深い」という、人間らしい在り方、生き方を必要としているのです。そしてそのような「真の隣人」こそイエス・キリストなのです。そもそも、イエス・キリストはなぜこの世に来てくださったのでしょうか。それは、私たち人間の傷ついた姿を見て、「あわれに思い」私たちのところに来てくださったのです。イエス・キリストはこのたとえ話で、あなたを愛を施す側ではなく、傷つき倒れあわれみを受ける必要がある、弱い人の側に置かれたのです。そして誰があなたを愛したか、あわれみ深い人であったかと聞かれたのです。自分自身、傷つき苦しむ側に身を置かないで、苦しむ者の痛みは分かりません。さらに私たちは自分の傷の大きさに気付いておりません。その傷の大きさをただひとり知っていてくださったのはイエス・キリストです。ですから傍らに来てくださいました。私たちの隣人になってくださいました。このお話のサマリヤ人は実は、私たちのイエス・キリストであるということがよく分かった時に、その主イエスの憐れみによって、生かされている私たちは初めて、このサマリヤ人の心を心として生きることができるのです。そして「誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と問いかけるイエス・キリストの言葉に「それは私です。」と答えて生きる者とされるのです。そして、ただなすべきことを、なし得る限りするのです。主イエスのご愛に突き動かされて、今、そこでなすべきことをすればよいのです。そうです!主イエスのように「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

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