1月20日(日) 礼拝メッセージ要旨
「名が天に記されている喜び」 ルカの福音書10章17~24節
本日の聖書の箇所には、二つの喜びが記されております。一つは弟子たちの喜び(ルカ10:17)、もう一つは主イエスの喜び(ルカ10:21)であります。弟子たちの喜びは、自分たちが悪霊に対する勝利に酔った歓呼の叫びでした。しかし弟子たちが、どんなに力強い業を行っても、それは主イエスが弟子たちにお与えになった権威に基ずくものでした。神がこの弱い弟子たちに信仰と力とを与えて勝利させてくださったのであります。従って神が喜びの源としてほめたたえられていないならば、それは全く虚しいのです。ですから主イエスは言われました。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)主イエスはここで本当の喜びとは何かについて語っておられるのです。「イエスの名による」働きがどんなに立派であろうと、それは永遠のいのちの喜びとは関係がないのです。そうではなくて、私たちの罪の贖い、そして私たちを救ってくださり、私たちを天の書物に名を書いてくださる、主イエス・キリストの御業だけが、永遠のいのちを保証してくださるのですから、この事を心に刻み大切にし、主イエスの御霊によって永遠のいのちを与えられたことに感謝し、喜びましょう。一方ここには弟子たちの的はずれな喜びと対照的に主イエスの喜びが記されております。(ルカ10:21)この「喜び」は、聖霊による満たされた喜びであり、神の救いの知識と父なる神を、キリストに選ばれている人たちに明らかにする(ルカ10:21~22)喜びでした。神は「天地の主」ですから、人間が観察したり、知性や理性を働かせても知ることができません。「これらのこと」つまり神の救いの知識はただ「現してくださる」ことによってのみ得られるのです。主イエスは世の知者、学者が知り得ない救いの知識を、かえって単純で正直な民衆が悟ってこれを楽しむ様子を見て喜びに溢れました。それから主イエスは弟子たちに、「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。」(ルカ10:23)と言われました。それは、旧約の預言者や王たちが見聞きできなかった、主イエスのうちにある、神の国の訪れと救いの恵みを「見る事」ができ「聞く」ことができたからです。(ルカ10:24)私たちはこの救いの恵みを「受ける」ことができた「幸い」を喜びましょう。