11月11日(日) 礼拝メッセージ要旨
「いのちの身支度」 ルカの福音書9章23~27節
今、日本は高齢化社会を迎え、定年退職して仕事から離れ、あるいは子育てが終わり、子供から手が離れてみると、自分の老後・余生をどのように生きるかということが問題となり、趣味を持つ、文化センターに行く、クラブやサークルに参加するなどして、社会参加を考えます。けれどもそれは、私たちが誰のために、何のために生きてきたかということを考えた時、ただ自分自身の幸せのために生きるという生き方に、どこか充実感、満足感がありません。なかなか自分のためにという自己目的になった人生、自分のための命というものを支えるのは、本当に難しいのです。本来人間は誰かのため、何のために生きるかという感覚を持って、創造されているのです。その意味でキリスト者は、誰のために、何のために生きるのかという目的を、はっきり持ちつつ生きることが出来る者にされております。このことは、どれほどの大きな意味を持っているのかが、本日の聖書の箇所には語られております。ここには、誰のために、何のために生きるべきかという、はっきりした答えが示されております。聖書は語ります。誰のために―「それは主イエスのために。」何のために―「それは自分自身を失わないために。」と。そのために「わたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と主イエスは招かれます。自分自身の幸せ、自己目的になった「いのち」は、自分のいのちを失ってしまうことだと、主イエスは語ります。たとえ全世界を手に入れても、その幸せを受け取る本人が、神の前に失われた者だとしたら、何の得がありますかと、主イエスは問いかけられるのです。ここに私たちの「いのちの身支度」をどのようにしたらよいかということが語られているのです。私たちの人生における「得になる」こととは、神さまが私たちを贖い、神さまが私たちを受け入れてくださるということが、本当に私たちにとって「得になる」ことなのです。主イエスに従う、主イエスのために生き死にする。このことを第一に生きることこそ、自分にとって最大の「得になる」ことだと考え、いのちの身支度をする。このことが、本日の聖書の箇所で教えられていることなのです。やがて主イエスが栄光の輝きのうちに来られる時、わたしは「そのような者を恥じる。」と言われないように、主イエスと主イエスの言葉、つまり福音の教えこそ、自分のいのちを一番美しく、生き生きと力強く生かすものであることを、日々確認しながら、主イエスにしっかり従って参りましょう。