礼拝メッセージ

9月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「食べて生きる命とは何か」            創世記2章16~17節

人間とは食べて生きる。そして食べて死ぬ存在である。これが聖書の人間についての定義です。「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2:16)神に似せて造られ、神の命を吹き込まれて生きる者となった人間は、何によって生きるのか。それは神が与えてくださるものをいただいて生きるのです。しかしただ生きるのではない。そこに生きる理由、目的がなければなりません。そのために人間は、土を耕して命を生み出すために働くのです。(創世記2:15)それを通して人間は人として生きるのです。一方「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と命じられているのです。これは神が「あなたは死んではならないから、食べてはいけない。」と命じておられることなのです。神は人間が死ぬことを求めておられないのです。このように神は人が人として生きるために、「食べなさい」「食べてはならない」という神の語りかけに、応えて生きる者として創造されました。従って神の語りかける言葉をどう聴き、どう応答するのかは、人間の自由にまかされております。そしてその自由には責任がともないます。神は人間を機械的にではなく、自由と責任をお与えになられたのです。しかし人間は、「食べてはならない。」という神の禁止命令に反して「善悪の知識の木」から取って食べてしまい、その結果「あなたは必ず死ぬ」という責任を負わなければなりませんでした。けれども神は人間が再び食べて生きることができる道を用意してくださいました。それは教会で行われている聖餐式にその事が表わされております。主イエスが最後の晩餐において、パンを裂き弟子たちに与えながら言われた言葉、「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26:26)そして杯を渡しながら言われた言葉、「みなこの杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:27~28)どちらも命令の言葉です。この言葉を真実に聴きつつパンを食べ、杯を飲む者は罪赦されて、永遠に生きる命を与えられるのです。主イエスは「わたしはいのちのパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っています。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:51~55)と確かな約束をしてくださいました。私たちはこのパンを食べ、この杯を飲みつつ、主イエスと一緒に生きるように招かれているのです。いいえ命令されているのです。

礼拝メッセージ要旨一覧はこちら