礼拝メッセージ

8月26日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「ひとり立ちする弟子たち」         ルカの福音書9章1~6節

子供が親の手を離れてひとり立ちするまでには、それなりの手間ひまがかかっております。主イエスの弟子達もそうでした。主イエスは徹夜で祈られたあと、弟子たちの中から12人を選んで、彼らに「使徒」という名をつけられ(ルカ6章12~13節)、手元に置いて教育し、訓練してきました。それは今までひとりであったバラバラの状態から、主イエスに呼び出され、主イエスに従うようになり、次に主イエスと一緒にいる段階へと進み(主イエスとの交わりの生活)、そして神の国を宣べ伝えるために、人々のところへ派遣される段階に至ります。このような手順を踏んで、いよいよ弟子たちはひとり立ちするのです。それも主イエスが持っておられる悪霊を追い出し、病気を直す力と権威を与えられて、主イエスと同じことをするために弟子たちは遣わされたのです。そして、この12人の弟子たちを伝道の第一線に送り出すにあたって、主イエスが何よりも大切に思ったことは、何を語るべきか、何を伝えるべきかということよりも、どのような人間として福音宣教をするのかということでありました。主イエスの弟子としての在り方、生き方のほうが、弟子たちの語る言葉よりも、福音そのものを語るのだ、説得力を持つのだと主イエスは言われたのです。ですから「旅のために何も持って行かないようにしなさい」(3節)という、伝道する者の心構えとも言うべき、この主イエスの言葉は、ずいぶん激しく、きびしい要求であります。主イエスと同じ使命に生き、同じ働きに遣わされる者が、この世の人々のように思い煩い、準備に心を労することがあってはならない。天の父なる神への信頼を語り告げる者自身が、その天の父なる神に全き信頼を寄せ、これらのものは全て必要なら与えられるという、生き方をしなければならないのです。今朝わたしたちもこうして主イエスのもとに呼び集められ礼拝を捧げています。それは主イエスのお言葉を聞くだけではなく、「遣わされる」(2節)ためです。それはこの主イエスを知らないこの世に散らされて行くことです。しかもわたしたちは、この世で新しく何かを始めるのではなく、すでに主イエスが始めていてくださる業を継続し、その実を収穫するだけです。そのために私たちは、父なる神に全て信頼し、主イエスが力を与えてくださることを確信し、主の使節、喜びを告げる使者として今週も遣わされてまいりましょう。

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