9月18日(日) 礼拝メッセージ要旨
「有終の日々を生きる」 ―敬老の日に寄せて― ヨシュア記14章6~14節
「有終の美」という言葉があります。「物事の最後を全うし、締めくくりを立派にする」という意味です。最近この言葉を思い起こさせる映画を観ました。新藤兼人監督「一枚のハガキ」という映画です。自らの戦争体験を基に、99年の人生をかけた最後の作品です。「戦争がすべてを奪った。戦争が人生を狂わせた。それでも命がある限り、人は強く生きていく。」という訴えが、一直線に心に届く映画でした。まさに「有終の美を飾る」にふさわしい作品です。しかし、有終の日々を生きた人物は新藤兼人監督だけではありません。聖書の中にも有終の美を生きた人物が何人も登場しております。ヨシュアとカレブもその人達です。「老友二人」と呼ぶべきか。今やカレブは85才、ヨシュアはカレブよりも年上と思われ、90才位かそれ以上という老境に入り、普通に考えますと引退をして、悠々自適、余生を静かにという生活が待っています。しかし、こと二人に関してはそのような生き方とは無縁でした。ヨシュアに主から「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(ヨシュア13:1)という言葉がかけられます。彼は今迄も約束の地カナンを征服するために、困難な戦いを民とともにしてきましたが、最後に残された仕事は、後々まで結果が残る、それぞれの部族への土地の分割という、さらに困難で責任の重い仕事でした。だからこそ、この仕事は、老翁ヨシュアにしてこそ果たし得るのだと言わんばかりに、主はヨシュアの引退をお許しにならなかったのです。カレブも同じです。すでに85才になっていたカレブでありましたが「モーセが私たちを遣わした日々のように今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(ヨシュア14:11)と語り、自分にはまだやり残した仕事がある。果たすべき使命がある。ここで引退するわけにはいかないと言うのです。こうしてヨシュアはその使命を果たし終え、110才で死を迎え、カレブもヘブロンの地を征服し、その働きを終えて世を去ります。ここに有終の日々に生きた美しい老友二人の姿が印象に残ります。主は必要とあれば年齢に関係なく、私どもをその働き、その使命に召しだされます。そうしますと、『有終の日々を生きる』 ということはどういうことなのでしょうか。その答えは、ヨシュア記14章8節9節14節の「私は、私の神、主に従い通しました。」と三度繰り返し強調されている言葉にあります。『有終の日々に生きる』とは、それは「私は私の神、主に従い通しました。」と言える日々であります。「有終の美」とは、「主に従い通した」という信仰者の姿のことです。とするなら、私ども誰もがなし得る事ではないでしょうか。特別に選ばれた人だけが有終の美を飾るのではない。主イエスの十字架の恵みにあずかり、永遠の御国に入る者とされたその恵みにひたすら感謝し、主のもとに召される時まで、「私の神、主に従い通す」あなたこそ、有終の日々に生きる人であり、有終の美を飾る者と主はして下さっているのです。