9月8日(日) 礼拝メッセージ要旨
「偽りなき真実に生きる」 ルカの福音書11章37~44節
食卓。それは人と人の関わりが最も深い場所、その発見の場であります。共に食卓を囲み、そこで人は心を開き、その心が明らかになる場であります。今、その食卓の場で主イエスは、あえて「きよめの洗い」を行わないことによって、一つの重大な事実を明るみに出そうとしておられます。パリサイ人や他のユダヤ人は、昔からの伝統を固く守って「きよめの洗い」をしてから食事をします。その伝統を破った主イエスにパリサイ人は驚いたのです。そのパリサイ人たちを主イエスは「愚かな人たち」(ルカ11:40)と呼んでおられます。彼らの「愚かさ」とは、知識はたくさん持っていても、自分の意見を持っていない。従って判断力がない。みんなが守っているから、私もそのようにするとしか考えられない程度の人たちなのだと言われるのです。ではなぜ主イエスは食前の「きよめの洗い」を守らなかったのでしょうか。なぜキリスト教徒は、「きよめの洗い」を気にしないのでしょうか。それは内も外もきよいものにされたからです。「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」(テトス1:15)これが主イエスが教えて下さったキリスト教の原則なのです。私たちは内側も外側も一体のものとして、神から造り直された神の作品であり、外側からでも愛の人であるということが分かるような、内も外もキリストの香りを放つ証人として生かされているのです。今主イエスはパリサイ人と食卓を共にしながら「どうぞ早くあなたの内側にある汚れに気づいてほしい。自分の愚かさに気づいてほしい。」と招いておられるのです。「そうすればいっさいが、あなたがたにとってきよいものとなり、もう何がきよいか、きよくないか、びくびくして生きる必要はなくなるのです。あなたの存在のすべてが神に造られ、神の愛の中に支えられいるのだから。その神を礼拝し、その神に栄光を帰すること、そこにあなたの生きる姿がある。」とパリサイ人にそして私たちに語っておられるのです。