礼拝メッセージ

9月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「真の信仰の回復」             ルカの福音書11章45~54節

「あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。」(ルカ11:46)この主イエスのことばが、律法学者たちを直撃します。律法学者は、自分の正しさについて確信がないとやっていけない仕事です。正しさの確信がなければ、教えることはできません。けれども主イエスが言われるのは、その自分の正しさで、人を苦しめていないか。人を押しつぶしたり、有無を言わせず抑えつけてはいないのか。これは人を指導するところで起こってくる、私どもの大きな過ちであります。そのように、人に重荷を負わせるような言葉を語って、人を正しい道に歩ませることはできないと、主イエスは言われます。だから、神の言葉を拠り所にして立つ律法学者が、人々に重荷を負わせ、自分の正しさ、正義感を満足させることぐらい、主イエスに我慢のならないことはなかったのです。主イエスはまさにその重荷を取ることこそ、ご自分の使命となさった方でした。そして私どもがすぐに思い出すのは、マダイの福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という言葉です。主イエスは、私どもの重荷をおろさせるために、人となってこの地上に来られました。そして、すべての人の罪の重荷を十字架の上で負われました。ところが律法学者たちは、実に細かいさまざまな訓戒を重荷として負わせ、あなたも罪人、あなたも困った罪人だ、そう言ってその人の背中にある罪の重荷を、できるだけ増やそうとしたのです。そのため主イエスは真の信仰を彼らの手から取り戻そうとされたのです。律法学者、パリサイ人たちの形式化して、いのちを失った上辺だけの信仰、その宗教に攻撃の矢を放たれたのです。それはまた、「キリストのみ、聖書のみ、信仰のみ」を叫び戦った、あの宗教改革者たちの姿でもあったのです。

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