礼拝メッセージ

8月5日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の創造といのち(3)―生命の神聖さ―」      詩編139篇13~17節

「いのち」をどう捉えるかは、今日キリスト教のみならず、多くの宗教にとっても避けることのできない問題です。この「いのち」の問題を考える上で大切なことは、詩編の作者が強調しているように、私たちのいのちは神の眼差し、神の愛、神との深い関係を土台としているということです。本日の詩編は、人間である「わたし」が神に対して「あなた」と呼びかけています。神もまた人間にむかって「あなた」と呼びかける温かい眼差しをもって語りかけます。人間は神から「あなた」と呼びかけられる存在として創造されています。神だけがいのちの主として、人間のいのちの時を定め、どのように死を迎えるか、死に方を決定されます。このようにいのちは、神からの賜物として人間に与えられたので、どんな状態にあっても、生命活動は絶対的な価値があり、生かし続けなければならないという考え方を「生命至上主義」英語で「ヴァイタリズム」といいます。身体の生命の活動維持を絶対のことと考えます。しかし、キリスト教は生命を尊重する立場であっても、単なる「生命至上主義」ではありません。ここにいのちの問題に関連して、安楽死や延命治療、尊厳死など現代社会がかかえている課題に私たちは直面しております。特に延命技術の進歩、そして過剰な延命至上主義の医療によって、精神的、身体的苦痛に耐えなければならないという非人間的な生き方を強制し、人間の尊厳にふさわしい死を許されない現代の医療技術と、どう向き合えばいいのか、その事を私たちは問われております。私たちは神とのかかわりという観点から生と死を理解し、行動しなければなりません。私たちは神の御旨に逆らってでも、どのような代価を払ってでも、またどのような手段を用いてでも、生命の延長を至上命令として求める「生命至上主義」に陥ることなく、神との交わりにあるいのちを大切にするよう召されているのです。死は「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ書14:8)と確信しているキリスト者にとって、最終的な敵ではないのです。

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