礼拝メッセージ

8月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「カインのしるし」                創世記4章8~16節

人間は堕落以後、神の二つの問いかけの言葉と向き合って、生きなければなりませんでした。                             (1)「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)アダムに問いかけられた言葉が、今カインに対して向けられます。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と。罪を犯した人間は、主の御顔を避けて、己の身を隠そうとします。カインはアベルの死体を、主の御顔を避けるかのように、地中に埋め、自分の罪を隠そうとしました。そのカインに「あなたどこにいるのか。」と神は問いかけられます。それは、自分が何をしたのか、わからせようとする神の言葉でもあります(2)「あなたは、いったいなんということをしたのか。」(創世記3:13)エバに問いかけられた言葉が、そのままカインに向けられます。(創世記4:10)「何をあなたはしたのか。」神はこの問いかけによって、カインが自ら殺人の行為を告白し、悔い改め、謝罪する機会を与えられます。しかし、カインは居直り、神の憐れみの心を踏みにじるのです。その結果神はアダムとエバの場合よりも、手厳しい刑罰をカインに与えられました。それは「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」というものでした。それは彼がこれから常に不安と恐れの中に生きなければならないことと、この地上には安らぎの場、生活の場所を持てないことを意味します。そのカインは神に「しるし」をつけていただくことによって、自分は殺されることはないとわかると、彼は大胆不敵に生き始めるのです。聖書が見つめる人間、それはどこまでも罪深く、惨めです。人に死が教訓にならないのです。人を殺しても悔い改めないのです。人間は今でも人を殺し続けているのです。大地が殺された人間の血を飲まない日はないのです。これから私たちは、聖晩餐にあずかります。何故私たちはこの聖なる食卓に招かれているのでしょうか。それは私たちに一つのしるしが与えられているからです。パウロはそのしるしを「イエスの焼印」と呼びました。(ガラテヤ6:17)罪なき神の独り子が私たちのすべての罪を背負って、十字架にかかって死んでくださったことにより、罪はもはや私たちを支配することはありません。カインをだれも撃つことが出来ないように、神がイエス・キリストの焼印を私たちに付けてくださった限り、私たちは永遠にイエス・キリストのものなのです。

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