8月28日(日) 礼拝メッセージ要旨 尾子富夫
「神はここにおられる」 詩篇139篇1節〜24節
クリスチャンが神について語る時、「無限、永遠、不変」あるいは「全知全能、偏在」と、いうでしょうか。これらの言葉は、神学的に大切です。でも、日常的な私たちの心は、神様が遠くにいて必要な時しか来てくれない、縁遠い存在として感じられる時はないでしょうか。
たしかに限界のある人間が、神様がどういうお方かを表現することは、困難であります。しかし、私たちは神様をぼんやりと遠い存在として感じるだけであってはならないはずです。
私たちの心のどこかに、特別な祝福や、大変な試練や困難がある時だけしか、神様は私たちに顔を向けて下さらない、という思い込みがないでしょうか。
このような時、詩篇139篇は多くの人に愛されてきた詩篇であるだけに、
私たちが信仰を与えられた時の感動をよみがえらせ、人格的な神との交わりを思い起こさせるみことばにあふれています。
「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」にあるように、口から発することばが見つからないうちに、神様はすべて私の言いたい事をご存知です。心の隅々まで把握してくださるばかりでなく、私たちを「母の胎のうちで組み立てられ、」つまり種のような存在から「あなたの書物にすべてが、書きしるされました」とあるようにご計画をもって目的のある存在として扱っておられるのです。
私たちの生涯の日々を、神様は絶えず「心配してくださり、」「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」お方として人格的に関わっておられるのです。
決して、祝福の時や大試練のときにだけ慌てて近づいて祈りに応えてくださるのではなく、またいつも沈黙しておられるのでもなく、どんな小さな日常の出来事のなかにも、関心を持って、生きて働かれる神様を見上げ、歩んでいきたいと願います。