7月5日(日) 礼拝メッセージ要旨
「キリスト・イエスの囚人」 エペソ人への手紙3章1-6節
信仰生活において苦難の問題ほど、私たちの信仰を揺り動かすものはないと思います。何故、神様はご自分の民に試練と艱難をお与えになるのか。何故、使徒であるパウロが、優れた伝道者がローマも牢屋に閉じ込められるようになさったのか。パウロ書簡を見ますと、このような苦難の主題が良く扱われていますが、それほど「信者の苦難」と言うのは大きな問題でした。しかし、苦しみに対するパウロの姿は不平不満や疑問を抱くような事ではなく、ただ神様だけを見上げて福音を宣べ伝える事だけに集中しました。苦しみを乗り越えて試練の中でも喜びました。どうやってそうする事ができたのでしょうか。それは、苦難の中でも神様を見上げ、神様からその理由を見つけたからだと思います。
パウロは、自分について「キリスト・イエスの囚人となった私パウロ」と言っています。これは、ローマの囚人ではない、ある犯罪を犯してしまって捕らえられた事ではない、ということです。人間の目に見える状況は、確かにローマ兵士に捕まったことでした。それでも、その身に鎖を巻き付けたのはキリスト・イエスだと語っている事です。そして、その苦しみの状況を通して、何故ここにいるのかを考えて、救いの喜びを思い出したのです。そして、パウロは「あなたがた異邦人のために囚人となった」と言います。実際にパウロが牢屋に閉じ込められ理由は、ユダヤ人も異邦人も同じく神様の民をなり、相続人となるという事を宣べ伝えたからです。即ち、自分に与えられた使命に忠実で、あなたたちに福音を伝えるためであったという事です。
今日、私たちも、私たちが誰かのために苦しむ時、その苦しみ自体より、神様を見上げるようになりたいと思います。パウロが投獄されている状況の中でも、その現実を見て判断するのではなく神様を見つめて判断したように、その状況に導いて下さった神様を見上げて覚えたいと思います。