礼拝メッセージ

7月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「喜びと悲しみの世界を生きて」     サムエル記第一 8章1~6節

私たちの歩む人生とは決して単純なものではありません。その中身はどれ一つとして同じものはなく千差万別、変化に富んでいます。世間的には順調でしあわせそうに見える人が、その胸中に苦悩を抱えており、反対に恵まれない条件の中にあって、心豊かに生きている人もいます。私たちの人生とは、幸いと不幸、喜びと悲しみ、安らぎと不安という二つの世界がいつも同居しております。本日の主人公サムエルもこのような二つの世界を生き抜いた人でした。サムエルは、母ハンナの涙と祈りから生まれた子供でした。彼は幼い時から祭司エリのもとで教育を受け、「主の前で育った」(サムエル記第一2:21)人でした。何か聖なる、澄んだ印象を与える存在感があります。しかしサムエルが育った環境は望ましいものではありませんでした。祭司エリの息子たちは「よこしまな者で主を知らず」(サムエル記第一2:12)彼らの罪は「主の前で非常に大きかった。」(サムエル記第一2:17)ので、祭司エリの家は、神に裁かれて悲惨な終わりを迎えるのです。これらの出来事を祭司エリの側に居て、サムエルはすべてを見届けたのです。主の宮にあっても、つまずきの多い材料がいくらでもあるのです。しかし神は望ましくない状況にあっても、サムエルを導かれるお方なのです。やがて成人したサムエルは預言者としての働きに任じられると、偶像礼拝をやめさせ、ペリシテ人との戦いに勝利し、イスラエルに安定をもたらし、大きな業績を残しました。しかし、彼もまた祭司エリと同じ深刻な息子の問題で苦しまなければなりませんでした。彼の二人の息子たちは「さばきつかさ」であったが「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。」(サムエル記第一8:3)のです。この息子たちの堕落はどれほどサムエルを悩ませたことでしょうか。子どもたちの問題は心身にこたえるものです。さらにこの事が引き金となってサムエル自身も引退を迫られるのです。彼はイスラエルが大きく変わろうとする歴史の転換期において、預言者、士師また祭司としての役割を果たした偉大な人物でありましたが、その生涯はエリの家の親子問題、わが子の不道徳問題、民の背反、サウル王の不従順と失脚など、厳しい人生であり、心身ともに重圧に苦しむ日々であったと思われます。サムエルはこれらをどのようにして受け止めつつ前に進んで行ったのでしょうか。それは「サムエルは主に祈った。」(サムエル記第一8:6)という姿勢にありました。祈るということは、それはどんな時も神から離れず、前進するということなのです。神のみ心に自分を従わせようとする、その調整の時なのです。この姿勢は彼が祭司エリから学んだことでした。エリはサムエルから神の裁きが下ることを告げられた時、「その方は主だ、主のみこころにかなうようなことをなさいますように。」(サムエル記第一3:18)というエリの言葉をサムエルは忘れませんでした。私たちの人生は決して楽な道ではありません。いろいろな問題に直面しながら生き抜かなければなりません。その時に、私たちを支えてくれるもの、それは「サムエルは主に祈った。」という姿勢であり、エリの「その方は主だ。」という信仰の言葉なのです。

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