礼拝メッセージ

7月27日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「探し求める神」              ルカの福音書15章8~10節

デンマークが生んだ偉大な思想家キルケゴールに「死に至る病」という著書があります。キルケゴールは「死に至る病」とは「絶望」のことであると言いました。キルケゴールにとって「絶望」とは、普通の用語とは違って、人間自身が神を離れ、神を見失っている状態を意味しておりました。彼はキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではないのです。ましてや苦悩、病気、悲惨、災い、苦痛、憂い、悲しみなど、およそ地上のこの世の悩みと呼ばれる一切のものも、キリスト教的な意味では、決して「死に至る病」ではありません。そうではなく、人間が神を離れ、神を見失っている絶望的な状態こそ、「死に至る病」なのだと言いました。特に自分が絶望していることを知らないでいる。自分が人間として魂をもって生きていることを意識していないということこそ、まさに絶望なのだ。病気を病気と感じる間はまだいい。「死に至る病」とは、自分が死ぬべき病を身に負っていながら、自分で、その病を全く感じていない状態。これこそが深刻な「死に至る病」であると、彼は言うのです。本日の聖書の箇所で、主イエスが語られた「失われた銀貨」の譬は、自分は迷っているなどと全然意識していない。全く自分の存在に対して、何も考えようとしない死んだ状態。それが銀貨の状態と同じであると語られるのです。この「失われた銀貨」の譬は、失われたということに、強調があり、その深刻さがあります。しかし一方では、またその銀貨を探すという、追及の徹底さを描くことで、神の姿がこの譬には語られているのです。失われた銀貨のように、さまよう罪人である私たちの魂を、とことん、追いかけてやまない、まことの神の姿がそこにあります。「渋柿の渋がそのまま甘味かな」という俳句のように、私どもの罪が深ければ深いほど、それだけキリストのすばらしい愛を受けるのです。今日もとことん追求してやまない神の愛、キリストの愛があなたに迫っています。


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