7月24日(日) 礼拝メッセージ要旨
「信じられなかった愛ーユダの悲劇」 マタイの福音書27章1~10節
ユダの悲劇のすべては、主イエスを裏切ったことから始まりました。この一事は彼の生涯の汚点となっただけでなく、歴史上裏切り者の代名詞として、必ずその名前が使われるという汚名を残しました。彼が何故主イエスを裏切ったのか。その理由、動機は永遠の謎であります。聖書に記されている数少ない、彼に関する記事をつなぎ合わせ私たちはその理由、動機を推測してきました。ある人達は、ユダは思い違いをしていたのだと言います。自分の思い描いていた主イエス像と現実の主イエスの姿の違いの大きさに気づかされ、自分の主イエスに対する期待が間違っていたことを知り、彼は主イエスに失望し、裏切ったという見方です。またある人達は、彼の金銭欲をその理由とします。ヨハネの福音書12章6節には、ユダが弟子たちの会計の仕事を任され、その預かったお金をいつも盗んでいたと記されております。そのユダが主イエスを祭司長たちに銀貨30枚で売り渡したことは、当然予測される出来事でした。またユダの裏切りは、仲間達への嫉妬のゆえだったのではないかと考える人達もいます。ペテロとヤコブ、ヨハネのような主イエスの側近の弟子としての立場が与えられず、仲間外れのような思いの中で、主イエスに対する失望と仲間に対する憎しみが、彼を裏切りの行為へと走らせたのだと見るのです。このように、ユダの裏切りの理由、動機は複雑で謎に包まれておりますが、そこに見えてくるものは、人間というものは相手に対する一方的な期待や願望が失われてしまいますと、結果的に裏切ってしまうという人間の本性の姿であります。しかしユダの悲劇が私たちに重く語りかけているものは、彼は主イエスに失望した以上に、自分自身に失望したということです。ユダは売り渡した主イエスが、罪に定められ死刑に処せられる判決を見て、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売った。」(マタイ27:4)と自分自身の罪深さに絶望し、魂の重圧に耐えかねて、自らの命を断ったのです。彼は自分の思い違いを絶対化しました。彼はペテロのように、悔い改めの涙を流し、振り向いて見つめられる主イエスの愛を信じて、従っていくことが出来ませんでした。何故なら彼の魂は閉ざされたままであり、決して主イエスに向かって開くことはなかったのです。 私たちはこのユダについて記憶しましょう。彼は自分の行為を後悔しましたが、しかし救いに至る悔い改めはしませんでした。ユダは私たちの戒めのため、灯台のように立てられているのです。彼のことをよく見つめ、信仰の破船に遭わないようにしましょう。