7月10日(日) 礼拝メッセージ要旨
「主イエスの手当」 ルカの福音書4章31~44節
日本語の「手当」という言葉は、なんとやさしく、温かく、ほっとさせ、全てを包み込むような気持にさせる言葉でしょうか。幼い日に母から受けた手当を、私はなつかしく思い出します。熱を出した時、おなかが痛くなった時、けがをした時の、ひたいに置かれた母の手、さすってくれた母の手、皆さんもそんな思い出をお持ちではないでしょうか。この「手当」という言葉が、最も似つかわしいお方がイエスさまでした。ルカは「イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」(ルカ4:40)と記しております。ひとりひとりに手を置いて、おいやしになるイエスさまは、ひとりひとりのための救い主であられます。その人の痛み、悲しみ、苦しみに触れるために来られた、その人のための救い主であられます。カペナウムの町には「手が付けられない」「手も足も出ない」「手に余る」「手の付けようがない」汚れた悪霊につかれた人、ひどい熱で苦しんでいる人、病気で体が弱っている人達が大勢いました。そんな困り果てている人ひとりひとりに手を置かれるイエスさま。イエスさまの手当は、その人を傷つけず、生かすためのものです。その事をルカは「その人は別になんの害も受けなかった。」(ルカ4:35)と記しております。薬害や副作用を引き起こして、人を苦しめたり、体を悪くさせたりはしません。 また「手を置く」という行為は、イスラエル社会の中では「聖別する」ことを意味します。イエスさまが私たちひとりひとりに手を置いて下さるということは、体だけでなく、魂も心もいやされ回復されるということでもあるのです。ところが「イエスは寂しい所に出て行かれ」(ルカ4:42)祈りのために、その手を置くいやしの働きを中断されております。いやされないまま、がっかりして家に帰った人々もいたでしょう。何故イエスさまはそうなさったのか。それは「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければならない」(ルカ4:43)からでした。他の町に行って、神の福音に生きる喜びを伝えること、それが神のみこころであったからです。「わたしは、そのために遣わされたのですから」(ルカ4:43)という救い主の道を歩み続けられるのです。主イエスの心の中にあったものは「父なる神よ、何がほんとうにこれらの人々の救いなのですか」という、激しい問いかけでありました。そこからやがて十字架の死と死からの復活という出来事が導かれてくるのです。そこにしか真実のいやしはないという、主イエスのまことの救いの道が明らかにされていきます。今ここにいる私たちは、肉体のいやしを経験された方はいないかもしれません。しかしもっと深く、もっと手厚く、確かに私たちをいやして下さる、健やかな主イエスの十字架の罪の赦しの手当、蘇りの永遠のいのちの手当があることをいつも覚えましょう。