礼拝メッセージ

6月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の創造といのち」               創世記1章26~31節

耕治人の小説の中に、痴呆がすすみ症状が目立つようになった妻を、介護する作者の姿を描いた作品があります。妻が眼に涙をためて「あたし何も出来ないのよ。」と言って泣き出し、自分の額を手でパンパンと叩き、「死にたい。」ともらす姿に胸が衝かれます。人は自分で何も出来なくなる時、自分のいのち、人生とどう向き合わなければならないのか。そこに重い課題があります。聖書は創世記の冒頭で、「人間とは神に完全に依存した存在であり、体も心も身も魂も何もかも神に造っていただき、そして生かしていただいている。いのちを与えてくださったのは神であり、そのいのちを生かしてくださるのも神である。」と語ります。ではそのように造られた人間は、何によって生きるのか。それは働くことにおいて、自分を成長させ生きていくのです。別の見方をすれば、人間というのは「ただ生きている」ということが出来ない存在として創造されたのです。生きていることに、そして自分がここにいることに、理由や意味を必要とするのが人間なのです。人間が働くように造られているということは、人間は「何かが出来る」という感覚を持つ者として、造られているということです。「出来る」という感覚は、私が生きていくためには必要なものです。しかし老いていくと、だんだん出来ないことが増えてきたり、痴呆や認知症、重い障害になったりして、ついには自分一人での生活が出来なくなる時が訪れるかも知れません。耕治人の妻のように痴呆が進行し、介護する夫に対して「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と呟き、「あなたのご主人ですよ。」と言われて「そうかもしれない。」と答えるような状況に、私たちも置かれるかも知れません。しかしそうなっても、誰かが「あなたと共に生きたい。」と思って、支えてくれるなら『わたし』は『何も出来ない』自分の現実を受け入れることが出来ます。何よりも私たちにいのちを与え、生かしてくださる神の眼差しがあるはずです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。身よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)とあり、神はすべてのものを『見て』、それぞれが『良い』と認められました。つまり私たちのいのちは、神の眼差しのもとで、神との関係の中で成り立っていることを覚えたいのです。子どもは何も出来なくても、親の想いに支えられて生きています。それと同じように、私たちは神の想いによって存在しています。この神の創造といのちという理解に立つ時、何も出来ない自分であっても、誰かの想いに支えられて生きることが出来ることを覚え、自分の生というものを大切にしたいのです。

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