礼拝メッセージ

6月26日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主に愛される人として」             ヨハネの福音書11章1~6節

人はその存在そのものによて、自らを語り、現すことがことができます。ラザロがまさにその人でありました。 マルタ、マリヤの兄弟として、エルサレム郊外のベタニヤ村でイエスと親しく交わり、死からよみがえらされたものとして、ヨハネの福音書は印象深く描いております。 そのラザロですが、マルタやマリヤが主イエスとの会話や積極的な行動について記されているのに対して、ラザロが何を語り、何をしたのかということについては、何も記されていないのです。彼が主イエスにしていただいたことや他の人が彼について語ったり、したことだけが記されているのです。そんな彼をヨハネは、「主よ・・・あなたが愛しておられる者」(ヨハネ11:3)という一言で表現しました。「ラザロ」と言わないで「あなたが愛しておられる者」が病気ですと、わざわざ言い換えているのです。そして11節では「わたしたちの友ラザロは眠っています。」と主イエスは言われております。「友」と訳されているのが3節の「あなたが愛しておられる者」と同じ言葉なのです。ヨハネのように「あなたの弟子のひとり」とかあるいは「あなたを愛する者」ではなく「あなたが愛しておられる者」と呼ばれているのです。「あなたがこれまでずっと最愛の友として愛し、喜んで恵みといつくしみを尽くしてこられた者」とう意味です。それはラザロが死んだ時、主イエスは涙を流されました。それを見た周囲のユダヤ人たちは「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」(ヨハネ11:35~36)からも、主イエスがラザロをどんなに深く愛しておられたかがわかります。つまりここでは、キリストに対するラザロの愛ではなく、ラザロに対するキリストの愛が強調されているのです。ラザロが何を語り、何をしたかではなく、ラザロの存在そのものの重み、尊さを語っているのです。私たちは人生の営みの中で、何をしたかということも大切ですが、ラザロのように、神からも人からも愛される人間として存在している生き方も大切なことではないでしょうか。「愛される人」になる。その事だけでも立派な奉仕であり、周囲を和ませ、励まし明るくさせる意味のある生き方なのです。

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