6月22日(日) 礼拝メッセージ要旨
「弟子の覚悟」 ルカの福音書14章25~35節
本日の聖書の箇所には、「わたしの弟子になることはできません。」という、主イエスのお言葉が三度繰り返し出てきます。(ルカ14:26、27、33)まず主の招きに応えて、信仰の道に生きる決断が求められます。(ルカ14:26)次に「自分の十字架を負って、主イエスについて行く」という信仰生活の覚悟が求めらます。そうでなければ「わたしの弟子であり続けることはできない。」(ルカ14:27)と、主イエスは断言されます。そしてご自分の弟子になるために、憎まねばならないものを数え上げられます。この場合の「憎む」という用語は、「より少なく愛する」という意味を含んだ言葉です。そこには家族の名が上げられ、父から始まって、子供、兄弟、さらに自分のいのちまでに言及されております。要するに家族の全員であり、ひとりの例外も許されないのです。家族との親密な関係を第一にすることは、弟子としてふさわしくないと言われるのです。ずいぶん厳しい言葉であり、命令です。ここで主イエスが問題にされているのは、主に従うためにそれらの人々との親しい関係から、どれだけ自由になっているかということです。自分のいのちまでも捨てる自由を持っているかが問われているのです。人間としての最も基本的な家族との関わり、そして自分との関わりの絆をきちんと、一度、断ち切ることが求められているのです。人は誰でも苦しみの少ない人生を願います。今ここで自分の十字架を負って主に従うことは、自分も主イエスのように処刑されるという、その苦しみに会うかもしれないということです。主イエスの十字架の道は、苦難と神にさえ見捨てられる歩みでした。しかし、私たちはどんなに苦しみに会っても、決して見捨てられることはありません。それゆえ、私たちは、主イエスと共にエルサレムへの最後の旅に行くことができ、「主よあなたの弟子として、私たちの信仰の歩みの終わりまで導き、全うさせてください。」と祈ることができるのです。