6月19日(日) 礼拝メッセージ要旨
「父であることの重さ」 サムエル記第二18章24~33節
聖書のエペソ人への手紙6章4節には、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。このみことばの前で、私たちは、なんと父親であるということは、重い存在であろうか。誰が完全な父親でありえようかと戸惑う方が多いのではないでしょうか。かえって子どもの思いを受け止め、理解し、導いていく父親の役割を果たすことができず、子どもをおこらせてしまうというのが、私たちの実情ではないでしょうか。ダビデ王は、そんな父親としての苦しみを経験した人でした。それが本日の聖書の箇所「わが子アブシャロム、わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(第二サムエル18:33)というわが子アブシャロムの死を嘆く言葉に全て言い尽くされております。アブシャロムとは異母兄弟であるアムノンが、異母妹タマルを辱めてしまうという事件(第二サムエル13章)をめぐって、タマルと同じ母を持つアブシャロムと父ダビデとの間に溝ができてしまいます。父ダビデはこの事件について「激しく怒った。」とありますが、何もしなかった。そのためアブシャロムはアムノンに復讐し、異母兄弟の弟が兄を殺すという悲劇が起きました。人類最初のアダムの家族と同じことが繰り返されたのです。アダムの罪がアダムにとどまらず、その子供たちに引き継がれ、ダビデの罪は、その子供たちに受け継がれていった。ここに人間誰もが負わされており、誰もが負わなければならない罪のきびしい現実をみるのです。アブシャロムは父ダビデの顔を避けて、3年の間逃避行を続けます。その後、エルサレムに戻り、父ダビデと表面的には和解したかのように見えましたが、一度崩れた親子の絆は元に戻ることはなく、父親への不信感、怒りは、父ダビデへの謀反となって表面化します。最後はダビデの部隊によって不慮の死を迎えるのですが、またしてもダビデは、アムノンに続いて自分の子どもの死に対面することになります。怒りと悲しみとの混じった「わが子アブシャロム。わが子よ。」というダビデの慟哭は時の流れを越えて、国の境を越えて、すべての父親の心に届いてきます。 父親は子供にとって面倒な存在であります。時には嫌がられ、それでいてあるべき理想的な姿が求められております。求められていながら父親はその要求の前にどうすることもできない。しかしなくてはならない存在であります。それは、私たちが、主の祈りにおいて、「天にまします、われらの父よ。」と神を父と呼びかけることが求められておりますがそのことと深い関係があります。父親として子どもと関わることの全てが、この神を父とすることから始まるのです。あのルカの福音書15章11~12節に描かれている光景は、放蕩息子を父が迎え、抱きしめる姿であり、母は登場しません。父が出て行かなければならないのです。父親の登場です。どんなにだめな父親でも、この父なる神の赦しにあずかり、父なる神から託された存在、それが父親であります。そこに父親としての存在の重みがあるのです。