礼拝メッセージ

6月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「力の限り、ふさをつかむ信仰」        ルカの福音書8章40~48節

人は同じ時間を生きても、「生」という字に読み方が幾通りもあるように、一人として全く同じ人生はありません。本日の聖書に登場する二人の女性も、12年間という歳月は同じであっても、その人生は正反対のものでした。一人の女性は、会堂管理者ヤイロのひとり娘です。ひとり娘ということで、どんなに大切な子であるか、私たちはよくわかります。12才になるまで大切に、娘のしあわせを願う親の愛情に見守られつつ、しあわせなな人生を過ごしてきたことでしょう。もう一人の女性は、「12年の間長血をわずらい」(ルカ8:43)その病に苦しめられた人生でした。彼女は「多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」(マルコ5:26)が、病状は悪くなるばかりでした。こうした違いはありましたが、この二人の女性は共通の問題に直面しておりました。それは「死」の問題です。ヤイロの娘は死にかけており、長血をわずらった女は死に向かいつつあり、二人とも絶望の中にありました。しかしこの絶望のさなか、主イエスと出会うのです。会堂司ヤイロは、一人娘の助けを求めて、主イエスの足もとにひれ伏します。けれども彼の信仰は、「主イエスよ、あなたは真の神、神の子ですから、娘も私も必ず救って頂ける方です。それを信じます。」と、主イエスへの信仰を言い表わしているわけではありません。ただ自分の悲しみ、自分の絶望を主イエスの足もとに置いただけです。彼は自分にとって望ましい状態を与えて下さるイエス・キリストを期待していたのです。それゆえその信仰は、まだ弱さを持っており不十分な信仰でありました。一方長血をわずらった女は「あなたの信仰があなたを直したのです。」(ルカ8:48)と主イエスに言われるほど、見事な信仰を見せたのです。この女の行動は命懸けとも言える「汚れた者として」当時の常識から考えると異例な行動でした。人を信じたいという想いは、人間が持っている根源的な欲求ですが、求めてもその願いが必ずしも受け入れられるわけではありません。そう考えると信じるということは、命懸けのことなのです。それを思いますと、長血をわずらった女は、恐れと不安を抱えつつも、その壁を突き破り、この「信ずる」という思いを命懸けで貫き通したのです。この女の姿は、主イエスに対する信仰に生きて救われたという点で、私たちの信仰の模範とも言ってよいのです。信仰とは、ヤイロのようにイエス・キリストが自分の望む方向に事態を好転させて下さると確信することではなく、長血をわずらった女のように、力の限り主イエスの衣のふさを掴むことなのです。

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